内に、短歌の胚胎せられてゐる間に、旋頭歌はまづ一つの詩形として認められてゐた。
一体、片哥は、何かの事情で一つ伝つて居るものもあるが、此は正しくないので、必組み唄として二首以上、――問答唱和を忘れたものは――連吟せられたのである。さうしたものゝ中には、片哥も短歌に近いものも、入りまじつてゐた。其で、片哥から短歌の分離する以前には、短歌も組み唄の形で、数首続けて謡はれた。記・紀の大歌に、短歌一首独立したものゝあるのは、此も亦、伝来や記録が完全でなかつたのだ。
短歌も相聞の詞として、一首づゝ対立し、又は数首組んで唱和せられた間に、特に記憶の価値あるものがとり放して口ずさまれる様になつた。さうして一首孤立した短歌も、謡はれ作られする様になつたのである。うたへ[#「うたへ」に傍線]の時の歌は、長曲や、片哥もあつたが、次第に、短歌に近づいて来た様である。殊に万葉集に見られる事実は、男女のちぎり[#「ちぎり」に傍線]の場合に、此形が最多く用ゐられた事である。
男女の初めてのちぎり[#「ちぎり」に傍線]にも、又其後も、神の意思をうたへ[#「うたへ」に傍線]の方式で申して神慮を問ふ。此時は、答へは歌によらず兆しで顕れる。うけひ[#「うけひ」に傍線]の形である。若しうたへ[#「うたへ」に傍線]の詞なる歌に、過ちや偽りのあつた時は反自然・非現実的な現象が、兆しとして目前に現れよ。かう言つた表現をとつた歌が、相聞の歌の中に違うた領域を開いて来た。此うたへ[#「うたへ」に傍線]から出た民間のうた[#「うた」に傍線]が此までの相聞唱和の内容のない、うはついた歌の中に、多少の誠実味を開いて来た。
宮廷のうた[#「うた」に傍線]と称するものゝ外に、かうしたうたへ[#「うたへ」に傍線]の詞句をうた[#「うた」に傍線]と言ふ様になり、相聞或は恋愛歌が、民間のうた[#「うた」に傍線]の本体と考へられる事になつた。さうして其傾向と勢を一つにしたのは、短歌様式の流行であつた。恐らく、藤原の都から奈良京へかけてが、短歌の真に独立した時代と思はれる。かうした短歌全盛の気運は都よりも、寧、地方から動いて来たものと思はれる。
六 東歌
東歌は、奈良朝時代だけのものでも、万葉集限りのものでもなかつた。古今集にも見え、更に降つて平安中期以後にも行はれた。東遊の詞曲及び、風俗歌が其である。此三種の東歌は時
前へ
次へ
全34ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング