代の違ふに連れて、其姿態も、用途も変つて来てゐる。が、其本来の意義は、推定出来る。
東遊を、東国の舞踊と言ふのには、異論はあるまい。此は、東国舞踊の中、特別に発達した地方のものが固定したのに違ひない。恐らく駿河・相摸に跨る地方の神遊びと思はれる。足柄阪の東西では、同じ東人の国も、事情が違つてゐる。此峠から先は、東《アヅマ》の中の東である。だから此み阪の神の向背は、殊に、宮廷にとつては大問題である。足柄の神の歌舞を奏して、宮廷の為の鎮斎とし、神に誓約させる事は、最意義のある事である。東遊「一歌」の詞章には、万葉の「わをかけ山のかづの木の」の句の固定したものが這入つてゐるのを見ても、縁の深さが思はれる。万葉集巻十四を見ても、相摸国歌の足柄歌は、一部類をなしてゐる位である。
平安中期の東遊は、かうした事情で、足柄の神遊びの固定したものらしい。古今集の東歌は、大歌所の歌の一部或は、殆ど同等として扱ひを受けてゐたもの、と考へてよい。此と並んだ……ふり[#「ふり」に傍線]や神遊びの歌と似た神事・儀式の関係はあつたものに違ひない。唯、一つを東遊、一つを東歌と言うたのは、片方が舞踊《アソビ》を主として、声楽方面は東風俗《アヅマフゾク》なる「風俗歌」を分化してゐたからである。風俗歌が短歌を本位とせないのは、東の催馬楽と言つた格にあつたからである。古今集のは、まだ祭儀関係は想像出来るが、万葉の十四の東歌になると、さうした輪廓さへも辿られない。だが、恒例又は臨時に、諸方の風俗の奏上せられた本義を推して見れば、巻十四の蒐集の目的は略《ほぼ》わかる。其中には固より、都からの旅行者の作もあらう。或は東人の為に代作したものもあらう。漫然と東風の歌と感じてとり収めたのもあらう。が、一度は、東人の口に謡はれたものが、大部分であらう。東の国々の風俗《クニブリ》の短歌の伝承久しいものや、近時のものや、他郷の流伝したものや、さうした歌の宮廷で一度奏せられたあづまぶり[#「あづまぶり」に傍線]の詞曲が残つたものらしい。
隼人舞や、国栖の奏などは、宮廷の歴史から離すことの出来ぬ古いものになつてゐる。其他の旧版図の国々のくにぶり[#「くにぶり」に傍線]、就中《なかんづく》悠紀・主基の国俗などゝは、性質が違ふ。新附の叛服常ない国である。そのくにぶり[#「くにぶり」に傍線]は重く扱はねばならぬはずである。其奏せられ
前へ 次へ
全34ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング