万葉集の解題
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)訣《わけ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)しきたり[#「しきたり」に傍線]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)山部[#(ノ)]赤人
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)みつ/\し
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一
まづ万葉集の歌が如何にしてあらはれて来たか、更に日本の歌がどういふ処から生れて来たか、といふこと即、万葉集に到る日本の歌の文学史を述べ、万葉集の書物の歴史を述べたいと思ふ。
すべて文学は、文明の世になると、芸術的衝動から作られるものであるが、昔はさうした欲望がなかつた。だから、其時代に、如何にして歌が出来たかをまづ考へねばならぬ。
日本に歌の出来た始めは、文学の目的の為に生れたものではない。すぐに人が考へる事は、歌は男女牽引の具として生れて来たと考へ易いことであるが、其は大きな間違ひで、鳥が高声をはりあげたりするのとは違ふ。なる程、此要求はあるには違ひないが、此説の全部を其原因に採ることは、あまりに幼稚な見方である。文学がある点まで発育して後にこそ、此手段に利用せられることはある。此立ち場から異つた方面を話して見たいと思ふ。
外国に於ても、やはり同じ発生の径路を取つて居るが、日本では更に著しく其跡が見え、古い書物に其痕跡がはつきり遺つて居る。万葉集の様な可なり文明の進んだ時代の歌集に於ても、其跡がはつきり見える。
私は文学の発生より説き、其証拠を総て万葉集に求めつゝ、日本の歌を考へて見よう。さうすれば同時に、日本の歌の発生的順序がわかると思ふ。
万葉集は、巻の順序は年代になつてゐないが、十七・十八・十九・二十の四巻は、年代がずつと新らしい。中でも二十巻の歌は最新しいと考へる。先づ其処までに到る迄の日本の歌の発生する歴史を、万葉集によつて述べて見よう。さうすると、正当な万葉集の年代順が附く訣《わけ》である。
文章が散文であるのは、新しい。始めは、韻文或は律文である。日本では律文と言ふ方が正しい。日本文学の古い時代には、律文が唯一の文学で、散文は後に生れたものである。奈良朝も頂上に到つた頃に散文が現れて居るが、十分の発育はせず、純粋の散文は平安朝になつてやつと発達した。平安朝の文学史は散文の文学史で、奈良朝から以前の文学史は律文の文学史である。だから、律文の文学史――万葉集の歌の出来た順序に就ての解説は当然、奈良朝までの日本古代の完全な文学史になるのである。
文学であると言ふ以上、永久性がなければならぬ。文学は即座に消えるものではない。処が不都合な事は、昔は文字がなかつた。尠くとも、日本文学の発生当初に於ては、文字は無かつた。文字の無かつた時代の文学は、普通の話と同じ様に口頭の文章によつて伝へられてゐた。つまり今言ふ童謡・民謡の如き文章、而もたゞ、口頭の文章と言うても、人の記憶に止まらぬ文章は永久性がない。永久性のある文は、韻文・律文でなければならぬ。散文の文学が、文字のない時代に永久性をもつて居たと考へるのは間違ひである。
其次に、律文であつても、遺らねばならぬものと、遺る価値の無いものとがある。つまり、其村々・国々の生活の中心になつて居る年中行事として繰り返されるものでなければ、永久性はない。今日に於ても、昔からの宗教の力の遺つて居る言ひ習しや、しきたり[#「しきたり」に傍線]や、信仰がある。今日の生活に関係の無い迷信・俗信がある。吾々は迷信と思つて居りながらも退け得られぬ信仰がある。料《ハカ》り知れない祖《オヤ》々の代から信仰として伝へられ、形式のみ残つて、当代の信仰と合はなくなり、意味のわからなくなつたものが沢山ある。
昔の村――大きな国を知らない時代――の生活を考へると、村の最重大な中心になるものは、神祭りである。祭り以外の事は多くは場合々々になくなつてもよかつた。神祭り以外の事としては、神の信仰に関する事、是等は総て律文で伝へられて居る。失はれない信仰が村々を安全に保たせるものだと信じて居た。此神の信仰に関するものが、後々まで遺つて、文学もこゝに出発点があつた。
即、神々を祀る場合、神に関する信仰を伝へた言葉、一種の文章なり、ことば[#「ことば」に傍線]なりが、永く久しく残つたのである。其中には社会状態・信仰状態の変化に因つて、無意味になつて来たものもあるが、ともかくも、神に関する口頭の文章のみが、永く久しく遺る力を有つて居た。此以前に、文学の興る出発点は考へられない。
二
神の信仰、神祭りに関することば[#「ことば」に傍線]は、如何にして我国に現れたか。最初に吾々の祖先が、是は伝へなければならぬと思つたことば[#「ことば」に傍線]は、神自身の言うたことば[#「ことば」に傍線]、即、託宣であつた。神が現れて、自分の言ひたい事を言うた、其ことば[#「ことば」に傍線]である。神のことば[#「ことば」に傍線]が、何の為に告げられたかと言ふ事を、考へねばならぬ。
神が村々へ時を定めて現れ、あることば[#「ことば」に傍線]を語つて行く。ことば[#「ことば」に傍線]は、恐らく村人の要求通りのことば[#「ことば」に傍線]であつて、而も其が毎年繰り返される。村人の平穏無事で暮せる様に、農作物が豊かである様にと言ふ、お定り言葉を神は言うて行つたのである。託宣の形は遺つて居ないが、思ふに単に神が、実利的のことば[#「ことば」に傍線]を言うて行くのではなく、神現れて、神自身の来歴を告げて去る。そして、村人を脅す家なり村なりの附近に住んで居る低い神、即、土地の精霊と約束して行く。其は、自分はかう言ふ神だぞ。だからお前は自分の言ふ事を聴かねばならぬ、と言ふ意味のことば[#「ことば」に傍線]であつた。約束をした後、神は村を去る。
此が毎年繰り返される。此ことば[#「ことば」に傍線]が村人にとつて非常に大切であつた。村人は是を大切なものとして伝承した。其痕跡は今も遺つて居る。節分の夜、厄祓ひが来たり、東北地方では正月十五日の夜、怠け者を懲す為に変なものが来たり、年の暮や年の始めに、鬼の歩くのは、皆昔神の訪れたなごりであるが、今日では、此意味は忘れられて居る。此等は恐らく、只今の国家が始まらぬ前からの信仰が、形式化しつゝ遺物化して遺存して居る、生活上の化石であらう。
かうして来る者は、皆神なのであつた。其が次第に訣らなくなつて、鬼になつたり、乞食になつたりして、其習慣が漸《やうや》く固定した。つまり、遠い処から年に一度村々を訪れる神が、沢山人数を連れてやつて来る。此神々の唱へたことば[#「ことば」に傍線]が、村々にとつて大切なのである。この信仰詞章も、村の生活の複雑になるのに比例した。家を建てたり、酒を造つたり、火を鎮めたりする時は、村人の要求どほりの神が来た。今の厄祓ひが人である様に、実は、昔も人間が仮装して来たのだ。即《すなはち》其期間は、神であると言ふ信仰をもつてやつて来る。
八重山では、初春の植ゑつけなどに、色々の神が来る。或村には鬼、或村には蓑笠を著けた者、或村には盆の時に、祖先が伴を連れて幸福を授けに来る。此訪れる神の唱へる文句が、神に扮した人によつて伝へられる。
村々の若者は、村の中心であつた。村の中心とは、神事に奉仕すると言ふことである。此神に仕へる為には、成年式を済して、資格を得なければならぬ。成年式をあげた若者が、村々の中心になる。神の祭りの前後には潔斎をして神になるのだ。神の唱へる文句は、村の若者のみに、非常な大切なものとして伝つた。此らは皆、神の自叙伝である。
ところが、是に随伴して言ふことは、相手の者をきめつけてかゝることば[#「ことば」に傍線]、村人に何の同情をも有たずして、其生活を脅す、低い精霊を圧へつける神々のことば[#「ことば」に傍線]である。此ことば[#「ことば」に傍線]は「自分は強い神である」と言ふだけでは、効力を示さない。即、相手は、どう言ふ弱点を有つて居るか、其弱点を自分はよく知つて居る、と言へば、勝《カチ》になるのである。汝は何時出来た。お前は何時どうした。かういふ自叙伝が複雑になり、相手の来歴まで述べる様なことば[#「ことば」に傍線]が、次第に出来たと思はれる。
一人称の律文が、二人称の律文を含む様になつて来た。而も此自叙伝の歴史が律文で伝へられた。かうして、日本に出来て来た口頭の文章が、古い語《ことば》で言ふと寿詞《ヨゴト》である。寿詞といふのは、只今の祝詞《ノリト》の本の形である。祝詞は、只今では変つた形をして居るが、もとは、土地の精霊に言ひ聞せることば[#「ことば」に傍線]であつた。更に溯ると、神自身の自叙伝であつた。祝詞の古いものゝ中には、神の自叙伝の様な処もあり、神が、相手の欠点を知つて居ると言ふ様な事も見せて居る処がある。是が寿詞である。
此崩れた形が、万葉集にある。そこには延喜式の祝詞のものよりも、古い形が遺つて居る。つまり寿詞の中に、神の自叙伝、相手の来歴を述べるものがあるので、其が其まゝ展びて叙事詩となつた。――此は、平安朝頃の物語よりも更に古い物語であつて、今の語で言へば、叙事詩である。かうして歴史を語る、尠くとも事実あつたといふ、歴史を語り伝へるものが、寿詞より分れて来る。処が、祝詞の様に、正式な堂々たるものにならず、短いものになつて了うた。即、肝腎の処のみ遺つて、他の部分は捨てたと言ふ如きものがある。此を呪言と言ふ。
即、長い文章の中から、短い部分が脱落して来る。此俤は多少とも、万葉集の中に留めてゐる。
三
ところが日本の国家組織が、次第に進んで来ると、村々は大抵、日本の国家に合せられる。国家の支配下となつた村は存続するが、国家に反抗した村は潰れる。即、社会的の階段が破壊する。其故、かう言ふ文章を伝誦してゐた一種の職業者が、此職業を失つた。同時に一の国家のもとに支配される様になり、村々の交通が自由になつた為に放浪する人々が出来た。即、所謂《いはゆる》「乞食者《ホカヒビト》」と言ふ職業人が現れた。自分等の村々に語り伝へられた歌なり、物語をもつて、諸国を流浪して歩く宗教家が出来たのである。此は、神事の叙事詩を歌ひ唱へて歩くのだ。かうして叙事詩を語り伝へる人々は、語部と称せられた。
村々の語部・国々の語部は、其村なり国なりの頭になつて居る家の、歴史を語り伝へて居る者である。其は、日本の国家の最上である宮廷の語部である者もあり、村々の頭であつた人々の家に置かれて居る語部もあつた。此中のある者は、村や家の破壊するとゝもに、ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]となつて、呪言や物語を語つて歩いた。宮廷に於ては、国家の歴史として考へられたものを、曲節を附して語り伝へ、其を国なり宮廷なりの大事な儀式の場合に語つた。こゝでは、宮廷での事のみを述べておく。
長い叙事詩の中で世に遺り易いものは、人々の興味を惹く部分である。長い叙事詩の中、興味の極《ごく》濃厚な部分は、脱落して歌はれる様になつて来た。即、長い叙事詩の中で、英雄物語の部分や、唱和の歌の一部分をのみ歌ふ事が出来て来た。是を大歌《おほうた》と言ふ。
大歌として独立すると、是が愈《いよいよ》声楽としての価値を高めて来る。古事記・日本紀の事実は、昔から伝つて居る語部の物語から書きとつたものもあらうが、独立して大歌自身に伴うた伝説が、這入つて居ると見られるのもある。宮中の音楽が段々一種の職業として認められる様になると、大歌を謡ふ者が出来て来る。即、大歌謡ひである。宮廷の祭事などに叙事詩から出て来た大歌を歌ふ習慣が出来て来たのである。譬へば日本武尊が亡くなられた時、其后や皇子の作られたといふ歌が、時に歌はれる、と言ふ事実が現れて来る。
ところが世が複雑になり、人の感情が細かになると、現在以上の歌を要求して大歌を創作する様になつて、宮廷詩の行はれる機運が起つた。是は日本の古い書物を見ると、大体古い飛鳥の都、即、舒明天皇・皇極天皇の頃からはつきりと現れて来
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