るやうである。其機運が熟して来た為に、柿本人麻呂の如き人が、出て来たものと思はれる。つまり作者自身が、其感情になつて、宮廷或は貴族の感情を想像して代作をするのである。
日本では、自分の欲求から歌を作ると言ふより前に、先づ代作の歌が行はれてゐる。即、古くは、自分の感情を歌として現はす必要はなかつたのである。団体とか、或る貴い人の感情を、下の臣が代つて謡うたのである。感情表現の歌と言ふよりも、昔から伝へられた形式一偏の物でよかつたのである。かうして居る間に、一方に於て有力なものが働きかけて、自分自身で歌を作る動機が、発生した。即、抒情詩を生み出す機運に向いて来たのである。だから万葉集に見えて居るものゝ中で、奈良朝以前の歌は、代作の歌が多いと思つてよい。万葉集を見ると、此傾向が、ひどく力強くあらはれて居る。其が、代作の時代から真の抒情詩を産み出した天才歌人人麻呂を、一時に飛躍させる原動力になつた。人麻呂の抒情詩は、今日見ると、代作と称して居ないものでも、代作的のものが多い。
純粋の抒情詩は、其本人の感情が鍛錬された奈良朝時代に入つてからである。即、鍛錬されたものは、一方から流れて貴族によつてとり入れられ、支那の詩・賦・散文によつて、日本人の文学上の感情が醇化せられて、新抒情詩が発生した。奈良朝の頂上になると、大伴旅人・山上憶良が、殊に有力に見える。此時代になると、旅人や、憶良や、それから其以外の有識階級の人々によつて作られた抒情詩が、沢山あつた。日本にほんとうの文学らしいものが出来たのは、聖武・孝謙天皇の頃である。
けれども代作したり、よそごとに言うて居る様な応用的の動きから出来た古い時代の歌でも、立派なものゝあるのは、決して否まれぬものである。文学は、動機や態度によらずして、其人の力によつてよい物が出来る事を、よく呑みこんでおく必要がある。

     四

処が、宴歌も亦寿詞より出て来る。宴歌は、宴会、即神々を迎へて、饗応する時の歌が、最初である。神が歌つた寿詞を語るか、寿詞を語ると同時に其場の即興、即、寿詞の崩れを歌うたことが、万葉の中に、見えて居る。神に歌をうたふ。神が又、此に対してうたげの歌[#「うたげの歌」に傍線]をうたふ。此は多くの場合、新しい建物を造つて宴歌をうたふ事に始まる。即、新室を建てた時に、新室《ニヒムロ》ほかひ[#「ほかひ」に傍線]をする。此新室ほかひ[#「新室ほかひ」に傍線]の他には、旅行すると、其宿る場所々々に家を建て、やはり新室ほかひ[#「新室ほかひ」に傍線]と称するものをする。此がたとひ、仮りの場所であつても、新室のうたげ[#「新室のうたげ」に傍線]をするのだ。其うたげ[#「うたげ」に傍線]が、時代が進むと共に、宮廷ならば、宮廷詩人が歌ふ事になる。こゝで、叙景詩の萌芽を発生する。
叙景詩は、そんなに早くは発達して居ない。うつかりすると、神武天皇の后いすけより[#「いすけより」に傍線]媛が、天皇の崩御の後作られた、と云ふ二首を叙景詩と思ふが、此は真の叙景詩ではない。――歌其もので研究するので、歌の序や、はしがきで、研究してはならぬ――だから叙景詩も、はつきりした意識から生れて来るものではない。新室ほかひ[#「ほかひ」に傍線]の歌は、其建物の材料とか、建物の周囲の物などを歌ひ込めて行く。而も最初から此を歌はうとして居るのではない。即、茫莫たるものを、まとめるのである。昔の人は、大体の気分があるのみで、何を歌はうといふはつきりした予定が、初めからあるのではない。枕詞・序歌は大抵、目前の物を見つめて居る。
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みつ/\し 久米の子等が 垣下《カキモト》に、植ゑし薑《ハジカミ》。脣《クチ》ひゞく。
吾は忘れじ。撃ちてし止まむ(神武天皇――古事記)
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即、序歌によつて、自分の感情をまとめて来るのである。予定があつて、序歌が出来たと思ふのは誤りである。でたらめ[#「でたらめ」に傍線]の序歌によつて、自分の思想をまとめて行つた。即、神の告げと同様であつた。万葉集巻一の歌を見ると、叙景詩だか何だかはつきりわからないものが多い。うたげ[#「うたげ」に傍線]の歌が、旅行の時に行はれたのが叙景詩である。内部のものから、外部のものを歌ひ出さうとして来た。此を大成したと思はれるのは、山部[#(ノ)]赤人である。此が赤人の功績である。赤人の先輩に、高市連黒人がある。此らの天才詩人が出で、飛躍せしめ、早く叙景詩をもち来した。彼等の以前にも功績ある人がないでもないが、此二人が、最著れてゐる。だから日本の歌には、真の叙景詩はなかつた。抒情気分が、附加されて居る。平安朝以後、此叙景によつて思ひを述べようとする傾向が続いた。今言ふ叙景詩は、比較的早く出て、新抒情詩より、一歩先んじて居るものである。
叙事詩の流れの中に、一つ変つた流れがある。其は、人の死んだ時に、読み上げる詞である。此を「誄詞《シヌビゴト》」と言ふ。此は、寿詞《ヨゴト》の分れで、叙事詩の変つたものである。昔の人は、貴族が死ぬと、一年位、従者が其墓について居る。此従者の歌ふ歌が、誄詞《シヌビゴト》から分れて来て、挽歌となつて来る。挽歌も、宮廷に於ては、宮廷詩人が代作する事になつて居る。譬へば人麻呂自身の歌として考へると、解釈のつかないやうなものが多い。
つまり、かう言ふ傾向から、日本人の歌に、譬喩が生れて来る。全くでたらめ[#「でたらめ」に傍線]に、そこにある物を捉へて詠む、と言ふ処から「脣《クチ》ひゞく」の様な形が、出来て来るのである。其中に、少しはつきり[#「はつきり」に傍点]したものと、さうでなく、譬喩と主題とが絡み合つて、進んだ意味の象徴詩と似た形をとつて、象徴的の気分を現す形がある。日本の譬喩の歌は大体、此傾向から発達して来るのである。まだ、説明せねばならぬ事が多いけれども、説明を他の方面に移す事にする。
同じ神が物を言ふ託宣の形にも、神が独りで喋つて居ると、たよりない所から、神と精霊との問答になる。神が簡単に相手に物を言ひかけると、此に対して返答の語があらはれて来た。私は、只今のところ、此は、寿詞より発生が後れて居ると思うて居る。普通の考へ方では、簡単な形が先に発生して、複雑なものが後に発生するとして居る。併し此は、物の変化を考察するに、誤つた考へ方である。先づ、複雑なものが先に発生するものである。自然は、複雑より単純へ、単純より又複雑へ進む事が順序である。
託宣の一分流として「名告《ナノ》り」が出た。即、相手の精霊に物を言はせる。草木が、物を言はない時代が続いたが、遠い処から来た神の力で、物を言ふ様になつた。「言とはぬ草木」「言とひし岩根」などの語が、遺つて居るのは、其だ。相手が物を言はぬので、無理やりに、物を言はしむれば勝つのである。其は、極簡単な形で、其答へはたゞ、一言である。近年まで農家に遺つてゐた行事に、節分の夜、なり物の木を「成るか成らぬか。成らぬと伐つてしまふぞ」と脅して廻ると、一人が陰《かく》れて居て「なります/\」と答へる。物を言はしめると、言はしめた神が勝つのである。こゝに、日本歌謡の上に、問答の形が現れて来る。

     五

神と精霊との問答が、神に扮する者と、人との問答になる。そして、神になつてゐる人と、其を接待する村々の処女たちとの間の問答になる。其問ひなり答へなりを古い語で片歌と言はれて居る。片歌が二つ並んで一首をなしてゐるのは、皆問答の形である。
記・紀の日本武尊が、東《あづま》の国を越えて、甲斐に出られた時、
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新治《ニヒハリ》 筑波を過ぎて、幾度か寝つる
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火焼《ホタキ》の翁が、此に和して歌つて居る
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屈《カヽ》なへて、夜には九夜。日には十日を(古事記中巻)
五 七 七
五 七 七
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此は対立した歌である。
片歌は、離す事は出来ないが、後には、片歌だけのがある。両方を、一人で詠むと言ふ事が出来て来る。此は、もう旋頭歌である。旋頭歌は、厳重に五七七で切れてゐる。旋頭歌はつまり、二人のかけ合ひ[#「かけ合ひ」に傍線]の形をば、一人で言ふ形になつたものである。
又、歌垣と言ふ事がある。片歌の問答が発達したのは、神に仮装した男と、神に仕へる処女、即其時だけ処女として神に接する女とが、神の場《ニハ》で式を行ふ。即、両方に分れて、かけ合ひ[#「かけ合ひ」に傍線]を始める。神と人間との問答が、神の意義を失つて、春の祭りに、五穀を孕ませる為の祭りをする。其は、神と村の処女と結婚すれば、田畑の作物がよく実のると思つたからである。
神々の問答が、神と処女と、そして村の男と女とのかけ合ひになつた。即両方に男と女とが分れて、片歌で問答する。何れ、男女の問答であるから、自然と性欲的な問答になつて来る。其が、相手の歌を凌駕すると賞讃せられ、又、女が男をやりこめると、其女がもてはやされた。で、此歌垣の場《ニハ》の問答が、才能頓智を主とする様になつて来た。此が、段々と変つて来て、こゝに短歌の形が分れて来る。
短歌が固定したのは、藤原の都の時代、即、人麻呂の頃である。短歌をして明らかに人々に意識させる様になつたのは、人麻呂の功績である。
短歌の現れた原因は、もう一つ大歌にある。其は、歌を作る宮廷詩人と、田舎の即興詩人とが、別々である、と言ふ時代ではない。皆一つの所から、生れて来るものである。長歌の結末が離れて来る。即、五七五七七が独立して、此方面で発達した歌は、謡ふ形として、非常に、もて囃された時代であつた。此時代になると、ほんとうに、長歌・旋頭歌を作る人はなくなつた。短歌が、此種々の形を、整理して行つた。一方、短歌から、民謡《コウタ》の形もあらはれた。万葉集の東歌は、代表的のものであるが、是も、民謡の形をとつてゐる。
奈良朝には、短歌の形が主となつたので、新作の大歌には、是非附かねばならぬものとなつた。此が「反歌《ハンカ》」である。歌垣の歌は、性欲的のものであるが、世が進むと醇化して、段々と恋愛詩に変つて来る。併しながら、短歌になつては、性欲詩と、恋愛詩の境目をなして居る。
最初の日本の恋愛詩は、純然たるものではなかつた。古い歌は、事実、性欲詩である。歌垣の場《ニハ》で、相手を凌駕しようとする、誇張した性欲に根ざしたものであつた。此が性欲詩より、恋愛詩へ歩む途中に出来た、祭りの場合の即興詩である。処が、此歌垣の詩を作つて居る中に、段々、優れた人が出来て来る。即興的詩才のある人が、詩人としての自覚を発し、世に認められて、其人の歌が世に遺る。結果より見ると、古人の作つた歌が、一種の芸術的に作つたものと思はれるのもあるが、やはり、応用的のものである。其中に醇化されて、ほんとうに、恋愛詩が生れて来る。
純抒情詩には、も一つの流れがある。即、ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]の語る大切な詩である。宮廷で長いものを取り抜いてゐると同様に、民間でも、長い詩の中より、一部分を取り抜いて、おもしろい部分のみが、ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]によつて歌はれた。そして、田舎の粗野な人間の間に、なつかしい尊い恋愛の情緒を歌はせる様になつて行く。此は、藤原の都より以前から、あり来つた事である。ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]が、田舎の粗野な人々の石の様な心に、油の様な雫《しづく》をたらして行く。其証拠は、万葉集に、よく現れてゐる。巻十三の、藤原の都の頃と思はれる民謡に、宮廷の大歌と同じいと思はれる様なものが、尠くとも二首ある。
身に沁む様な恋物語が、ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]によつて伝へられ、其影響が粗野な村人の心に非常な美しさとして遺されて行つた。此情緒に惹かされて、歌垣の歌が、次第に美しい潤ひを帯びて来た。一例をあげて見ると、南より北へと植民した、安曇氏の一族がある。其が、海人部の民を率ゐてゐる。其安曇氏の移動して行く途に、のこされたに違ひないと思はれる、安曇氏の歌があつて、記・紀の中にも、採られてゐる。「天語り歌」とある
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