つと巻一・二を撰定した頃に大頓挫が来たらしい。其為に、他の巻々は、大ざつぱな分類をつけた儘になつたのもあり元の資料の排列順序の通りにして置いた巻などもある様である。大伴集の大部分は、かうして、其儘五つの巻を形づくることになつたものと見える。
だから、撰者の如きも、大伴家持の努力が可なり、役立つて居ると言ふだけで、勿論彼を以て当面の責任とする事は出来ない。
最都合のよい折衷説は、橘諸兄勅を受けて、主任として撰定の事に与つて居たが、遂げないで死んだので、助手であつた大伴家持が、其を完成したのだ、とする考へである。併し、ほんの想像でつゞくつた折衷説で、信用する事は出来ないのである。其外、藤原浜成・藤原真楯が、本集編纂の事に与つて居る事を主張する説もあるが、皆単純な伝説で信じられない。
四 雅楽寮と大歌所と
大歌所関係の書類が、本集にとり込まれて居ると言ふ証拠は、大伴家持の身の上に絡んで、今一つある。雅楽寮は、外国音楽部と日本音楽部とに分れて居た。この役所の主眼は外国音楽にあつたので、日本音楽部即、大歌所は附属のやうな形であつた。奈良朝以来、雅楽寮の事を歌舞所《ウタマヒドコロ》(
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