して、失敗せられたのが、薬子・仲成の乱である。奈良の生活に憬れ、万葉の生活に憧れ、万葉びとの生活を再しようとして、遂げられなかつたのである。こゝに奈良以前の歌を集大成しようと言ふお考への起り相な一つの根拠がある。
平城天皇は、詩人風の情熱を包んで居られ、僅かながら、お歌も残つて居る。桓武天皇崩御の砌《みぎり》は、慟哭して起つ事が出来なかつたと伝へて居る。其血は、皇孫行平・業平にも引いて居る。万葉人の生活を夢み、而も歌に対して、ある好尚と才能を持つて居られたとすれば、万葉集は当然出来なければならぬ訣である。
大伴集の手に入つたのを機会に、奈良以前の歌集を勅撰しようとの企ては、どうしても現れなければならなかつたはずである。古今漢文序の平城天子の語は、至極適切な万葉の製作時代の疑問に対して断案を示して居るものと言ふ事が出来る。
本集の末四巻(十七・十八・十九・二十)並びに巻五は、誰の目にも疑ひなく、大伴集である事が訣る。併し、ほかに、少しも大伴集の匂ひのない巻々も、段々ある。私の言ふ大伴集なる物は、さうした部分までも含めて居るのではない。右の、家持及び其父旅人に関係深い巻々の外にも、家持の手
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