はれぬ。其後の彼は、多く外官に任ぜられて、延暦元年まで、殆ど落ちついて都の生活を味うて居る暇がなかつたものと思はれる。さすれば、其後の怱忙たる事情を見れば、体裁が整へられ、公表せられたらうとは信ぜられぬ。歌の性質から見ても、冷やかに客観の出来た他人の手でなくては、人前に披露する事は、如何におほらかな古人と雖《いへども》、能はぬ種類の歌さへあるではないか。
此大伴家の歌集が、衆目に触れる機縁を為したのは、種継事件ではあるまいか。神代以来の旧家の沈淪の為、什器・蔵書類の官庫に没収其外の手続きで、這入つた事は考へ難くはない。さうして流れ出た大伴集が、朝廷に入つたとすれば、此迄禁中に伝承せられて来た歌並びに、古歌集と結びついて、万葉集の出来る機会が出来て来た訣である。延暦四年以後の二十年は、罪人家持の作物が公然と人目に触れる事の出来たはずはない。此点でも、桓武説は無意味である。

     三 平城天皇の性格

平城天皇が、廃太子の東宮大夫であつた家持と、どうした交渉があつたかは、想像する事は出来ぬ。但《ただし》、皇兄|早良《サハラ》太子の轍を踏んで、平安の新京を棄てゝ、奈良の旧都に復しようと
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