麻呂以前にも、我々の推測の及ばない幾多の宮廷詩人が居て、新作の大歌を作つたものと信ぜられる。人麻呂の作にも作者知らずとして伝つて居る物が多い筈である。宮廷詩人の作の、無名又嘱託者の名で伝つた時代と、作者の名の明らかになつて来た時代とがある。此二つの時代を跨げたのが人麻呂である。
人麻呂後期と、其以後の宮廷詩人の作物は、作者が次第に明らかになると共に、個性も段々明らかになり、芸術動機から出発した作物も見えて来る。宮廷詩人が必しも大歌ばかりは作つて居なくなるのである。
一面に於て、支那詩文の模倣が、段々模倣を離れて自我意識を出し、倭歌に影響する所から、芸術風な創作気分が次第に濃厚になつて来る。人麻呂も既に、其|俤《おもかげ》を見せて居るが、奈良朝に入ると、愈《いよいよ》著しく現れ出して、旅人・憶良の時代になると、とにもかくにも純然たる芸術動機から創作を試みる様になつた。
其が家持になると奈良朝も終りで、倭歌の上に固定が目に立つて来る。併し同時に経済状態の逼迫や、辺境の騒擾などから惹き出された落ちつきのない、安んじ難い時代になる。歌人の作物にも、其をさながら投影せざるはなかつた。家持等の歌が
前へ 次へ
全19ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング