つと巻一・二を撰定した頃に大頓挫が来たらしい。其為に、他の巻々は、大ざつぱな分類をつけた儘になつたのもあり元の資料の排列順序の通りにして置いた巻などもある様である。大伴集の大部分は、かうして、其儘五つの巻を形づくることになつたものと見える。
だから、撰者の如きも、大伴家持の努力が可なり、役立つて居ると言ふだけで、勿論彼を以て当面の責任とする事は出来ない。
最都合のよい折衷説は、橘諸兄勅を受けて、主任として撰定の事に与つて居たが、遂げないで死んだので、助手であつた大伴家持が、其を完成したのだ、とする考へである。併し、ほんの想像でつゞくつた折衷説で、信用する事は出来ないのである。其外、藤原浜成・藤原真楯が、本集編纂の事に与つて居る事を主張する説もあるが、皆単純な伝説で信じられない。

     四 雅楽寮と大歌所と

大歌所関係の書類が、本集にとり込まれて居ると言ふ証拠は、大伴家持の身の上に絡んで、今一つある。雅楽寮は、外国音楽部と日本音楽部とに分れて居た。この役所の主眼は外国音楽にあつたので、日本音楽部即、大歌所は附属のやうな形であつた。奈良朝以来、雅楽寮の事を歌舞所《ウタマヒドコロ》(本集)或はうたまひのつかさ[#「うたまひのつかさ」に傍線](倭名鈔等)と言うたが、一つ処に両部を備へて居た為に、大歌所の事をも歌舞所で表すことの出来たものらしい。家持等の公卿・殿上人が、こゝに出入して、盛んにわが邦在来の古曲を練習し、物識りの老下官を招いて古歌の伝へを聞いた趣きが見えるから、家持の蒐集した古曲及び大伴集の、大歌所とのある脈絡があつたことは伺はれる。大伴氏分散に際して、これ等が大歌所の台帳と結びつく機会を得た訣である。
大歌と言ふ名は、民謡、童謡を小歌《コウタ》と称したのに対した官家の歌即、宮廷詩と言ふ事になる。形式の長短に関係なく、公・私の区別を大・小で示したものに過ぎぬ。其と共に外国音楽(朝鮮・支那・印度)を雅楽と言ふのに対する名ともなつて居た。両方ともに、舞を持つて居るが、雅楽は器楽が主で、大歌は声楽が大部分である。雅楽が段々盛んになるに連れて、大歌は衰へて来る。平安朝に入ると誠に、微々たるものになつて了うた。併し、日本音楽部として二百五十人からの職員を持つて居た奈良朝の様子(令)は、なか/\侮られなかつた。神祇を中心にした宮廷行事に使ふ音楽としては、神の感情に通じ
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