易いと考へた。国語で出来た新古の詞章と、昔からのものと信ぜられた楽器とで、奏するものでなくてはならなかつた。其大歌はどうして出来たものか。此には成り立ちの新古と、其性質とから、大体四つの種類に分れる。
語部の物語の中の抒情部分、言ひ換へれば、叙事の中に挿んだある人物が、ある場合に作つたものと語り伝へられた歌が、物語から独立して、宮廷詩として用ゐられるもの。記・紀に、何振・何曲・何歌などの名で伝つて居る。
次には、恒例に使ひ慣れて居る大歌では間に合はぬ場合を埋める新作が出来て来た。普遍式なものよりも、特殊風な感情を表さねばならぬ臨時の場合に、群衆(時としては一人)の代りに、謳はれるものとしての詞章が綴られねばならぬ。初めは、謳ふ人の即興であつたものを、群衆が唱和する所から、多くは群衆の感情を代表する事になり、作者も亦、専門化した傾きが出来る。さうして、今日の歴史には、記載を欠いて居るが、宮廷詩人とも言ふべき職業詩人が出て来たのである。よし純粋に、職業化はして居なくとも、官人の中、新作の大歌を要する場合に、極つて製作を命ぜられる人が、飛鳥時代以後には、もう見え出したと思はれる。其作物は、群衆又は、一人の為の代作であるから、代作させた者の作物とか、或は無名作家の個性表現の創作とか見られる様になつて来る。
譬へば、柿本[#(ノ)]人麻呂の日並知《ヒナメシ》[#(ノ)]皇子《ミコ》[#(ノ)]尊や、高市《タケチ》[#(ノ)]皇子[#(ノ)]尊を悼んだ歌の如きも、実は個性表現でなく、官人の群衆の為の代作である。其と同じ意味で、人麻呂の泊瀬部皇女・忍壁皇子に献じた歌(巻二)は、悲歎を慰める為に作つたのではない。河島皇子の葬儀の為に、右の皇女・皇子に嘱せられて作つた物と見るべきで、明日香皇女を木《キ》[#(ノ)]上殯《ヘノアキラ》[#(ノ)]宮《ミヤ》にすゑてあつた時に、同人の作つた歌(巻二)と同じ意味で作られたのである。此から見れば、日並知[#(ノ)]皇子[#(ノ)]尊の舎人等の作と伝へて居る廿三首の短歌も、やはり人麻呂の代作と言つてよい。又、藤原宮の役民《エノタミ》の歌・藤原宮御井の歌(巻一)などは、作者知らずになつて居るが、やはり人麻呂に違ひはあるまい。
かうして見れば、人麻呂が日並知・高市二太子に事《つか》へて居たなどゝ言ふ説は、単なる想像に過ぎなかつた事になるのである。人
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