して、失敗せられたのが、薬子・仲成の乱である。奈良の生活に憬れ、万葉の生活に憧れ、万葉びとの生活を再しようとして、遂げられなかつたのである。こゝに奈良以前の歌を集大成しようと言ふお考への起り相な一つの根拠がある。
平城天皇は、詩人風の情熱を包んで居られ、僅かながら、お歌も残つて居る。桓武天皇崩御の砌《みぎり》は、慟哭して起つ事が出来なかつたと伝へて居る。其血は、皇孫行平・業平にも引いて居る。万葉人の生活を夢み、而も歌に対して、ある好尚と才能を持つて居られたとすれば、万葉集は当然出来なければならぬ訣である。
大伴集の手に入つたのを機会に、奈良以前の歌集を勅撰しようとの企ては、どうしても現れなければならなかつたはずである。古今漢文序の平城天子の語は、至極適切な万葉の製作時代の疑問に対して断案を示して居るものと言ふ事が出来る。
本集の末四巻(十七・十八・十九・二十)並びに巻五は、誰の目にも疑ひなく、大伴集である事が訣る。併し、ほかに、少しも大伴集の匂ひのない巻々も、段々ある。私の言ふ大伴集なる物は、さうした部分までも含めて居るのではない。右の、家持及び其父旅人に関係深い巻々の外にも、家持の手を通つた物がないとは言へぬが、外に今一つ以上、材料の出し処があつたものと考へられる。
其は、大歌所に昔から使はれて来た大歌と、大歌に採用する目的で蒐めて置いた材料とである。即、古事記・日本紀に見えた外の伝説を持つた由縁ある歌謡、其から時代々々の宮廷詩人が、時々の公事の用に作つた歌曲が既にあつたらうと思はれる大歌所の詞曲台帳に載つて居たはずの物、支那の為政者・音楽者の理想となつて居た民謡に正雅の声があると言ふ考へが、我が国にも這入つて居て、在来の童謡に神道が寓《やど》つて出ると言ふ信仰と一つになつて、国風を蒐め竹枝を拾ふ試みが既に行はれて、東《アヅマ》歌其外地方の民謡などの可なりの分量が、大歌所に集められて居たものと信じてよい。
其上尚一つ、大歌所か、官庫に保存せられて居たと思はれる各種の古歌集・個人の家集の一群が、編纂の際に、随分利用せられたものと思はれる。大体此三種が、大伴氏没落と共に、宮中で一つになる機会に接したわけである。而も、前言した素質を持つた平城天皇の御代であつたとすれば、万葉集は、纏《まとま》らなければならなかつたのである。
万葉集は、此様にしてなつた勅撰集であつたが、や
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