月の事、家持の生前東宮|大夫《ダイブ》として事《つか》へて居た早良《サハラ》皇太子が、新都造営主任であつた藤原種継を暗殺せしめられた事件が起つた。一个月も立たぬ間の出来事であつたので、彼は其謀主に擬せられて、名簿は除かれる。其子永主(或は、永手)其他が流罪になつた。此より僅か三年前の延暦元年にも、既に一度、氷上[#(ノ)]川継の乱にまき添へで、解官の上、京を構はれた事があつた。其は、直に免《ゆる》されたが、三度目のは長かつた。平城天皇の御代になつてから、先帝の遺詔として、本官に復されるまで、二十年待たなければならなかつた。
家持その外大伴一族及び、其家に出入りしたと見える人々の歌の、本集に数多く載つたばかりでなく、家持自身の手記に相違ないと鑑定すべき部分も、沢山にある。内はに見積つて、以上の部分だけが、家持の手で編纂せられたものとしても、ともかくも、万葉集に与へてゐる家持の為事は、可なりの分量がある。
本集の中、年月づけのあるもので、一番新しいのは、天平宝字三年一月の家持の歌である。ちようど、彼が死んで、大伴本家の離散した年から、二十五年前に当る。此時に編纂を終へて、公表したものとも思はれぬ。其後の彼は、多く外官に任ぜられて、延暦元年まで、殆ど落ちついて都の生活を味うて居る暇がなかつたものと思はれる。さすれば、其後の怱忙たる事情を見れば、体裁が整へられ、公表せられたらうとは信ぜられぬ。歌の性質から見ても、冷やかに客観の出来た他人の手でなくては、人前に披露する事は、如何におほらかな古人と雖《いへども》、能はぬ種類の歌さへあるではないか。
此大伴家の歌集が、衆目に触れる機縁を為したのは、種継事件ではあるまいか。神代以来の旧家の沈淪の為、什器・蔵書類の官庫に没収其外の手続きで、這入つた事は考へ難くはない。さうして流れ出た大伴集が、朝廷に入つたとすれば、此迄禁中に伝承せられて来た歌並びに、古歌集と結びついて、万葉集の出来る機会が出来て来た訣である。延暦四年以後の二十年は、罪人家持の作物が公然と人目に触れる事の出来たはずはない。此点でも、桓武説は無意味である。
三 平城天皇の性格
平城天皇が、廃太子の東宮大夫であつた家持と、どうした交渉があつたかは、想像する事は出来ぬ。但《ただし》、皇兄|早良《サハラ》太子の轍を踏んで、平安の新京を棄てゝ、奈良の旧都に復しようと
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