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月日や夜はとほり過ぎて行くけれども、父母のたまの如き姿は、忘れない事よ。
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父母の円満な姿を、「玉のすがた」と言つたので、其と同じ様で、一歩進めてゐるのが前の歌です。一つは、みづらの中に入れようと言ひ、一つは直接に讚へてゐるのだが、結局は、父母の霊魂の一部を、旅に持つて行つて、自分の守りにしようと考へてゐるのと、さうした習慣が変じて別の歌になつて出てゐるのです。家に居る人が、自分のたま[#「たま」に傍点]の一部分を添へて、旅行者に持たせるのは、古代日本では主に愛人か、妻がする形式になつてゐますが、沖縄では、最近まで妹や姪・女いとこ[#「いとこ」に傍点]のする事だつたのです。この二首は、親の生身の霊を分割する信仰から出てゐると言へます。前の歌は、母の霊魂を身につけて行きたいと言ふ、信仰上の現実が、装身具の玉として身につけて行きたいと言ふ、文学的な表現に推移してゐる事が訣りませう。後の歌にしても、自分の身体に添へて行く父母の霊魂から、玉になり、それを通り越して、父母の姿そのものをほめて、玉と感じてゐるのです。
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