万葉集に現れた古代信仰
――たま[#「たま」に傍点]の問題――
折口信夫
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)粉滷《コガタ》の
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大洗|磯前《イソザキ》の神
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)たま[#「たま」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)まち/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
万葉集に現れた古代信仰といふ題ですが、問題が広過ぎて、とりとめもない話になりさうです。それで極めて狭く限つて、只今はたま[#「たま」に傍点]に関して話してみます。
玉といへば、光りかゞやく美しい装飾具としての、鉱石の類をお考へになるでせう。又、万葉集で「玉何」と修飾の言葉としてついてゐるのは、その美しさを讚美した言葉だ、とお考へになるでせうが、多くの場合、それは昔からの学者の間違ひの伝承です。
我々が、神道の認識を改めねばならない時に当つて、それと関係の深いたま[#「たま」に傍点]についての考察に、一つの別の立場を作るのも、思索上のよい稽古になると思ひます。万葉集に、
[#ここから3字下げ]
むらさきの 粉滷《コガタ》の海にかづく鳥。玉かづきいでば、わが玉にせむ(三八七〇)
[#ここで字下げ終わり]
といふ歌があります。おなじ万葉集でも「寄物陳思」の歌は、概してつまらない歌が多いものですが、これなども文学的に言へば、大きに失望させられる歌です。併し、昔の歌は文学的な動機で作つた[#「作つた」は底本では「作った」]ものが少くて、もつと外の動機――ひつくるめて言へば、信仰的な動機――で作つてゐるのです。此歌の意味は「粉滷の海にもぐつて、餌をあさつてゐる鳥――その鳥が、潜《モグ》つて玉を取り出して来たら、おれは、その玉を自分の玉にしようよ」といふので、誰が見ても、すぐ何かもつと奥の方の意味があり相な気がします。まづ極平凡に考へてみても、古代人の饗宴の歌だと言ふことは思ひ浮びます。
年齢も、身分もまち/\[#「まち/\」に傍点]でせうが、およそ同じ程度の知識を持つた同時代の人々が集つて、饗宴をしてゐるといふやうな場合です。その席で歌はれる歌は、列席の人々の知識で、解決出来るものでなければならないのです。併し、昔の人に訣つた歌
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