だからといつて、今の人に訣る訣ではありません。昔の人の間だけに訣つた知識を詠んだ歌ほど、今人の知識には訣りにくいのです。この海には、玉が沈んで居相だ。それを自分の玉として装身具にしようといふ事によつて、列座の人々の興味をそゝつてゐるので、つまり海辺の饗宴の歌になりませう。「かづく」といふ事は、水に潜るといふ事ですが、獲ものを得る為に、もぐり込んで行つて、又もぐり出て来るといつた過程を含んだ言葉になります。だから「玉かづきいでば」は、もぐつて玉を取つて来たら、といふ事です。かういふ詞が、古人をして、一時颯爽たる生活に、遊ばしめたものでした。

万葉集に限つたことではなく、平安朝の民謡の中にも、玉が海辺に散らばつてゐる様に歌つたものが沢山あります。此は我々の経験には無い事だけれど、本とうに阿古屋《アコヤ》貝か鮑珠《アハビダマ》を歌つてゐるのだらう、其に幾分誇張を加へて歌つたのだらうと思はれる位、玉の歌はうんと[#「うんと」に傍点]あります。又世間の人はさう信じてゐる様です。けれども、これは昔の人が真実を歌つてゐるのではありません。かういう場合、あゝいふ場合といふ風に、歌を作る機会が習慣できまつてゐる。さうして、機会に適当な題材があり、約束的な、ものゝいひ方といふものがあります。玉だの、海の鳥だの、島の遠望だのと、列座の人の知つた類型がありますから、皆簡単に興味を感じる事が出来るのです。鳥や海人がもぐつて、容易に玉を得て来る様に言つてゐるが、誰もそれを信じてゐたと思つては、いけないのです。唯、玉をさういふ風に歌ふのには別の原因があつて、その上に、類型を襲うて歌ふ習慣が出て来たのです。それは、我々の様な平凡な生活の中から得られる経験でなくて、特殊な性格を持つた人が、特殊な場合に出会ふ事の出来る経験から来るものなのです。つまり、宗教的特質を持つてゐる人は、我々には認める事の出来ぬ神霊のあり場所をつきとめる能力を持つてをり、又霊魂の在り所を始終探してもゐます。日本人は霊魂をたま[#「たま」に傍点]といひ、たましひ[#「たましひ」に傍点]はその作用をいふのです。そして又、その霊魂の入るべきものをも、たま[#「たま」に傍点]といふ同じことばで表してゐたのです。
凡信仰に無関心な人々も、装身具の玉は、信仰と多少の関係を持つてゐると考へてゐますが、はつきりとは考へてゐません。昔の人は、
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング