其を密接に考へてゐました。即、尊いたま[#「たま」に傍点](霊)が身に這入らなければ、その人は、力強い機能を発揮する事は出来ないと信じてゐました。だから威力ある霊魂が、其身に内在する事が、宗教的な自覚を持つた人々には、重要な条件であり、さうした人々が、霊魂のありかをつきとめてゆく考へが、玉に到達するのです。日本の歌に、海岸と玉との関係を詠んだものが多いのは、此場合も、海岸に玉が屡、散らばつてゐるから、といふのではなく、霊魂をつきとめる特異な経験が、海岸のある時期に多かつたことを意味してゐるのです。其特殊事を、さうでない時期にも歌ふやうになつたから、何だか、常住、玉が散布してゐるやうに見えるのです。たとへば、暴風雨の後の海岸は、その印象が平時とは、すつかり変つてゐる。いろ/\な物が、遠くから押し流されて来てゐます。それが、普通に言ふ寄神《ヨリガミ》の信仰の元で、主としては石体です。この信仰は、古代から近代まで続いてゐて、それを発見するのが、宗教的経験を積んだ人の力なのです。我々から見ると、一種の狂的な神経だと言つてしまひますが、どうせ異常精神から来る宗教的経験を、そんな調子に、かれこれ常識的なあげつらひ[#「あげつらひ」に傍点]をする事は、はじめから間違つてゐます。普通人にも認められる方が、都合のよい処から、さうした岩石が、人の形や、人の顔を備へてゐる様に考へて行くのです。我々の幼い頃、京都辺で、夜、きむすめ[#「きむすめ」に傍点]といふものがよく見えると言はれました。処女《キムスメ》の意味と、木が娘の姿に見える、といふ二つを掛けた、しやれ[#「しやれ」に傍点]た呼び名だつたのです。それと同じ事で、さう見えると言へば、なる程と、人間の雷同性がこれを信じるやうになつて来ます。名高い大洗|磯前《イソザキ》の神が、或朝、忽然と海岸に現れた大汝・少彦名の神像石《カムカタイシ》であつたことは、斉衡三年十二月の出来事で御存じの筈です。

日本の信仰では、霊魂が人間の体に入る前に、中宿《ナカヤド》として色々な物質に寓ると考へられてゐます。其代表的なものは石で、その中で、皆の人が承認するのは、神の姿に似てゐるとか、特殊な美しさ・色彩・形状を具へてゐるとか言ふ特徴のある物です。神像石《カムカタイシ》の場合は、石全体を神と感じる様になつたのです。又、玉だと思つてゐるものゝ中には、獣の牙だ
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