万葉びとの生活
折口信夫

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)斥《さ》す

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)はつ国|治《シ》る人

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「酉+榲のつくり」、第3水準1−92−88]醸

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)高天[#(ノ)]原

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)だん/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

     一

飛鳥の都以後奈良朝以前の、感情生活の記録が、万葉集である。万葉びと[#「万葉びと」に傍線]と呼ぶのは、此間に、此国土の上に現れて、様々な生活を遂げた人の総べてを斥《さ》す。啻《ただ》に万葉集の作者として、名を廿巻のどこかに止めて居る人に限るのではない。又記・紀か、類聚歌林か、或は其外の文献にでも、律語の端を遺したらう、と思はれる人だけをこめて言ふのでもない。此時代は実は、我々の国の内外《ウチト》の生活が、粗野から優雅に踏み込みかけ、さうして略《ほぼ》、其輪廓だけは完成した時代であつた。此間に生きて、我々の文化生活の第一歩を闢《ひら》いてくれた祖先の全体、其を主に、感情の側から視ようとするのである。だから、其方の記録即、万葉集の名を被せた次第である。
政治史より民族史、思想史よりは生活史を重く見る私共には、民間の生活が、政権の移動と足並みを揃へるものとする考へは、極めて無意味に見える。此方面からも、万葉人を一纏めにして考へねばならなかつたのである。
       其理想の生活
彼らにとつては、殆ど偶像であつた一つの生活様式がある。彼らの美しい、醜い様々の生活が、此境涯に入ると、醇化せられた姿となつて表れて居る。
其は、出雲びとおほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の生活である。出雲風土記には、やまと成す大神[#「やまと成す大神」に傍線]と言ふ讃め名で書かれて居る。出雲人の倭成す神は、大和びとの語では、はつくにしらす・すめらみこと[#「はつくにしらす・すめらみこと」に傍線]と言うて居る。神武天皇・崇神天皇は、此称呼を負うて居られる。倭成す境涯に入れば、一挙手も、一投足も、神の意志に動くもの、と見られて居た。愛も欲も、猾智も残虐も、其後に働く大きな力の儘《まま》即《すなはち》「かむながら……」と言ふ一語に籠つて了ふのであつた。倭成す人の行ひは、美醜善悪をのり越えて、優れたまこと[#「まこと」に傍線]ゝして、万葉人の心に印象せられた。おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]以来の数多の倭成した人々は、彼らには既に、偶像としてのみ、其心に強く働きかけた。
我々の最初の母いざなみ[#「いざなみ」に傍線]の行つたよみの国[#「よみの国」に傍線]は、死者の為の唯一つの来世であつた。而《しか》も其いざなみ[#「いざなみ」に傍線]すら、いつか、大空のひのわかみこ[#「ひのわかみこ」に傍線]に遷されて居る。此は、万葉人の生活が始まる頃には、もう兆して居た考へである。人麻呂は、倭成す人[#「倭成す人」に傍線]の死後に、高天[#(ノ)]原の生活の続く事を考へて居る。而も其子孫に言ひ及して居ない処から見れば、一般の万葉人の為には、やはり常闇《トコヤミ》の「妣《はは》の国」が、横たはつて居るばかりだつたものであらう。理想の境涯、偶像となつた生活は、人よりも神に、神に近い「顕《アキ》つ神《カミ》」と言ふ譬喩表現が、次第に、事実其ものとして感ぜられて来る。唯万葉人の世の末迄、あきつみかみ[#「あきつみかみ」に傍線]を言ふ時に、古格としては、と[#「と」に白丸傍点]のてにをは[#「てにをは」に傍線]を落さなかつたのは、意義の末、分化しきらなかつた事を示して居るのである。

     二

倭成す神は、はつ国|治《シ》る人である。はつくにしろす・すめらみこと[#「はつくにしろす・すめらみこと」に傍線]の用語例に入る人が、ひと方に限らなかつたわけには、実はまだ此迄、明快な説明を聴かしてくれた人がない。舌が思ふまゝに働く時を、待つ間だけの宿題である。
其と一つで、おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]だけが、倭成す神でなくて、神々があつたのである。神々の中、日の神を祀る神がはつ国しつた時に、母なる日之妻《ヒルメ》と、教権・政権を兼ね持つ日のみ子[#「日のみ子」に傍線]の信仰は生れた。日のみ子[#「日のみ子」に傍線]は常に、新しく一人づゝ生れ来るものとせられてゐた。日のみ子[#「日のみ子」に傍線]が、血筋の感情をもつて、系統立てられると、日つぎのみ子[#「日つぎのみ子」に傍線]と云ふ言葉が出来る。つぎ[#「つぎ」に傍線]は、後置修飾格で、つぎ[#「つぎ」に傍線]=日のみ子[#「日のみ子」に傍線]といふことにも解釈出来る。
かうして、神々の宗教の神学体系が立てられた。併《しか》し、江戸の古代研究者は、此変形には、目をつけずに過ぎた。此がほゞ、藤原の都頃のことゝ思はれる。神学以前に長い神々の物語の時代が、なければならぬ筈である。飛鳥以前に統一なき神々の行状を、口から口へ持ち伝へた、長い時間があつたに違ひない。
古事記・日本紀は、新しい神学の基礎に立つて、さうした断篇を組織したまでの物である。三つの古風土記(九州の、二つには、私は著しい近世的の臭ひを、感ぜないではゐられぬから、省いた)の中、記・紀と、一番足並みを揃へてゐるのは、出雲風土記である。常陸のになると、此体系を度外視する、理智の眼が光つてゐる。其で、此書の裏に、一貫した神学があらうとは見えぬ程、恐しく断篇化した記述法を取つてゐるにも拘はらず、神を失はうとしてゐる者の偶像破壊に過ぎないといふ事は見えてゐる。時代は其と、いくらも古くはあるまいに、播磨風土記に現れた断篇風な記述は、確かに神学以前の不統一な面影を残してゐる。ほんとうに、無知な群集の感情其まゝである。
出雲には、おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]以上の人格を考へる事が出来なかつたから、其風土記にも知られ過ぎた神としての彼の生活は、其輪廓さへも書く必要がなかつたのである。処が播磨風土記に現れたおほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]は、まだ神学の玉の緒に貫かれない玉の様に、断篇風に散らばつてゐる。あまりに、記・紀を通して見たおほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]と距離があり過ぎる。尤《もつとも》、主人公として現れたおほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の名を、他の誰の名と取り換へても、さし支へはないわけである。だがさうすれば、神話・民譚の上の或性格に属する話を、取捨する標準は、神話・民譚以後の神学を以てする事となる。どんな話でも、物語時代のおほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の性格を組み立てゝ来た一要素なることは、事実である。或逸話は、おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の性格として持つに適当な、経歴の一つと考へられて来たのである。
すくなひこな[#「すくなひこな」に傍線]との競走に、糞ではかま[#「はかま」に傍線]を汚した童話風な話があり、あめのひほこ[#「あめのひほこ」に傍線]との国争ひに、蛮人でもし相な、足縄投げの物語りを残してゐる。醜悪であり幼稚であることが、此神の性格に破綻を起さないのである。普通人其儘の生活を持つことが理想に牾《もと》るものではない。
       嫉みを受ける人として
多くの女の愛情を、身一つに納める一面には、必、後妻《ウハナリ》嫉みが伴うてゐる。万葉人の理想の生活には、此意味から、女の嫉妬をうける事を条件とした様に見える。
おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の、よみ[#「よみ」に傍線]から伴れ戻つた嫡妻《ムカヒメ》すせりひめ[#「すせりひめ」に傍線]は、へら[#「へら」に傍線]の様に嫉み心が強かつた。八十神と競争して取り得たやかみひめ[#「やかみひめ」に傍線]も、彼女の妬心を恐れて、生みの子をば、木の股に挟んで逃げた。倭への旅に上る時、嫉妬の昂奮を鎮める為「ぬばたまの黒きみけし……」の歌を作つてゐる。が其時に、嫉み妻に持つた愛は、ぬなかはひめ[#「ぬなかはひめ」に傍線]の門に立つて唱和した歌に見えたものと、変らぬ美しい愛であつた。
男には諸向き心を、女には後妻《ウハナリ》嫉みを認めてゐたのが、この頃の夫婦関係であつた。「女大学」の出来る様に導いた世間は、其以前にかうした愛の葛藤の道徳を認めてゐた社会を無視してゐたのである。
教養あるものは、笑うてゐたが、妻敵《メガタキ》うちは近世まで、武士の間に行はれてゐた。此を笑ふ武士と、これを面晴れと考へる武士とが、尠くとも、二三百年は対立して来た。
江戸より前の武家の家庭では、後妻《ウハナリ》うちが頻々と行はれた。誠に今も残つてゐる絵が示す様な、百鬼夜行を見る程な荒い復讎手段であつた。相手の家の雑作調度を、大ぜいで攻めかけて壊して来る。其が悪事とは、考へられてゐなかつたのである。我々の国の乏しい文献は、家庭生活に対して頗《すこぶる》冷淡であつた。戦国以前に、どうした嫉妬の表示法を主婦たちが持つてゐたかを伝へてはゐぬ。併し、夫の殺伐な気風にかぶれて、戦国の妻が考へ出した方法とばかりは受け取れない。
もし本朝妬婦伝を撰るなら、人の世に入つてからも、列伝に這入る者は、だん/\ある。仁徳のいはのひめ[#「いはのひめ」に傍線]・允恭のなかちひめ[#「なかちひめ」に傍線]、ずつと下つて、村上の安子の如き方々は、其尤なるものであらう。
とりわけ、いはのひめ[#「いはのひめ」に傍線]は嫉妬の為に、恋しい夫の家をすら、捨てた。嫉む時、足もあがゝに、悶えたとある。きびのくろひめ[#「きびのくろひめ」に傍線]・やたのわきいらつめ[#「やたのわきいらつめ」に傍線]に心を傾けた仁徳天皇は、いはのひめ[#「いはのひめ」に傍線]に同棲を慂めるのに、夫としての善良さを、尽く現された。凡ての点に於て、人の世に生れて出たおほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]とも言へる程の似よりを、此天皇はおほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]に持つて居られる。其は殆ど双方の伝記で解釈のつかぬ処は、今一方の事蹟で註釈が出来る位である。今其一つを言はう。おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の上に、明らかに見えない事で、仁徳には著しく現れてゐる事がある。
       倭成す神の残虐
めとりのおほきみ[#「めとりのおほきみ」に傍線]は、帝を袖にした。はやふさわけ[#「はやふさわけ」に傍線]に近づいた。二人を倉梯《クラハシ》山に追ひ詰めて殺したのは、理想化せられた尭舜としては、いき方を異にしてゐると言はねばならぬ。
おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]が、白兎を劬《いたは》つた様に、此|帝《ミカド》にも、民の竈《かまど》の「仁徳」がある。此帝の事蹟では、儒者の理想に合する部分だけが、強調して現されてゐる。
やまとたける[#「やまとたける」に傍線]は、無邪気な残虐性から、兄おほうす[#「おほうす」に傍線]を挫き殺した。併し雄略天皇程、此方面を素朴に現されたのは尠い。此等の方々の血のうちに、時々眼をあくすさのを[#「すさのを」に傍線]が、さうさせるのである。
すさのを[#「すさのを」に傍線]の善悪に固定せぬ面影は、最よく雄略天皇に出て居る。彼の行為は、今日から見れば、善でも悪でもない。強ひて言はうなら否、万葉びとの倫理観からは、当然、倭なす神なるが故に、といふ条件の下に凡てが善事と解せられて居たのである。
仁徳の御名はおほさゞき[#「おほさゞき」に傍線]、雄略はおほはつせわかたけるのすめらみこと[#「おほはつせわかたけるのすめらみこと」に傍線]と謚《おくりな》せられてゐる。其二つを合せた様に見えるをはつせわかさゞきのすめらみこと[#「をはつせわかさゞきのすめらみこと」に傍線]なる武烈天皇が、わが国のねろ[#「ねろ」に傍線]とも言ふべ
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング