き伝記を、書紀に残されたのも、単純な偶然として片づけられぬ気がする。先の二帝の性格に絡んだ万葉人の考へを手繰り寄せる、ほのかながら力ある、一つの手がゝりではあるまいか。
三
此話を進めてゐて始中終《しよつちゆう》、気にかゝつてゐる事がある。私の話振りが、或は読者をしておほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の実在を信じさせる方へ/\と導いてゐはすまいか、といふ事である。昔の出雲人が、大勢で考へ出して、だん/\人間性を塗り立てゝ来た対象に就て云うて来たのである。おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の肉体は、或は一度も此世に形を現さなかつたかも知れぬ。併し、拒む事の出来ないのは、世々の出雲人が伝承し、※[#「酉+榲のつくり」、第3水準1−92−88]醸して来た、其優れたたましひ[#「たましひ」に傍線]である。神代の巻に現れるどの神々よりも、人間らしさに於ては、其色合ひが濃く著しい此神に、ほのかながらも変つた見方のあつた事を伝へてゐる。地物《チブツ》の創造性として、天地《アメツチ》造らしゝ神と讃へられた事は、風土記と万葉とを綜合すれば知れる。其さへ亦《また》、神性・人間性の重ね写真を経た事は疑はれぬ。わが造化三神が、古代人の頭に響いた程の力は、おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]も持つて居たのである。どの神にも地物を創造する事の出来た時代である。我々は拘泥した物言ひを避けねばならぬ。
神々のよみがへり[#「よみがへり」に傍線]
恋を得たおほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]は即、兄たちの嫉みの為に、あまた度の死を経ねばならなかつた。母は憂へてすさのをの国[#「すさのをの国」に傍線]に送つた。併しそこでも、くさ/″\の試みの後に野に焼き込められねばならなかつた。愚かなること猫の子の如く、性懲りもなく死の罠《ワナ》に落ちこんだ。けれども其都度、復活の力を新にして兄たちの驚きの前に立ち現れた。蛇・蜂・蜈蚣のむろ[#「むろ」に傍線]は、労働求婚の俤も伝へて居るが、尚死地より蘇生させる智慧の力を意味してゐる。
下《シタ》つ界《ヨ》に来てからは、死を自在に扱ふ彼であつた。智慧と幸運とは其死によつて得た力に光りを添へる事になつて来る。焼津野の談は、やまとたける[#「やまとたける」に傍線]の上にも、復活の信仰の寓《やど》つて居ることを見せる。実際此辺りまでは神か人かの弁《わか》ちさへつかない。万葉人も世が進むにつれて、復活よりも不死、死を経ての力よりも死なぬ命を欲する様になつた。択ばれた人ばかりでなく、凡俗も機会次第に永久の齢を享ける事が出来るもの、と思ひもし、望みもした。此はおほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の生活を、人々の上に持ち来たさうとする考へが、外来思想によつて大いに育てられたものと見てよからう。
併し初めには不死の自信がなかつた為に、生に執著もし、復活をも信じたのである。岩野泡鳴氏が、生の愛執を、やまとたける[#「やまとたける」に傍線]に見出したまでは、此方面の考へは闇であつた。命をかた[#「かた」に傍線]に妻子を育んだ戦国の家つ子[#「家つ子」に傍線]の道徳が、万葉びとの時代からあつたもの、と信じたがる人々によつて信じられて来た。
花の如きおふぃりや[#「おふぃりや」に傍線]の代りに、万葉人たちは、水に流れつゝ謡うたおほやまもり[#「おほやまもり」に傍線]を持つてゐた。町人・絵師すら命の相場を「一分五厘」と叫ぶ様になつたのは、近世道徳の固定の初めの事であつた。我々の国の昔には、すぐれた人々が、死を厭ふをたけび[#「をたけび」に傍線]を挙げて死んで行つた。
かういふ世であつたればこそ、おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]は死なゝかつたのである。其復活は信仰の俤を十分に伝へたと同時に、又切なる欲求を示したものでなければならぬ。
此点だけは、当時の人に或は単なる理想として、持たれて居つたに過ぎないかも知れぬ。が、近世に到るまでよみがへる人[#「よみがへる人」に傍線]の噂を、屡《しばしば》伝へる処から見れば、必しもやまとなす神[#「やまとなす神」に傍線]でなくては達せられぬ境涯とも考へきらなかつたであらう。
智慧の美徳
純良なおほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]は、欺かれつゝ次第に智慧の光りを現して来た。此智慧こそは、やまとなす神[#「やまとなす神」に傍線]の唯一のやたがらす[#「やたがらす」に傍線]であつた。愚かなる道徳家が、賢い不徳者にうち負けて、市が栄えた譚は、東西に通じて古い諷諭・教訓の型であつた。ほをり[#「ほをり」に傍線]・神武・やまとたける[#「やまとたける」に傍線]・泊瀬天皇など皆、此美徳を持つて成功した。道徳一方から見るのでなければ、智慧と悪徳とは決して、隣りどうしでないばかりか、世を直し進める第一の力であつた。此点は既に和辻哲郎氏も触れた事がある。
四
人の世をよくするものは、協和ではなくて優越であり、力ではなくて智慧であることに想ひ到るまでには、団体どうしの間に、苦い幾多の経験が積まれたのである。おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]を仰ぐ人々の間には、長い道徳にかけかまひのない生活が続いてゐたのであらう。
昔程、村と言ふ考へが明らかである。立ち入つて見ると、個人の生活は、其中に消えこんで了ふ。
すべての生活を規定するとゞのつまりが、村であるとすれば、村々の間に、相容れぬ形の道の現れて来るのも、極《ごく》自然な筋道である。手濡らさずに、よその村の頭をうち負した智力のぬし[#「ぬし」に傍線]が、至上の善行者と考へられるのも、尤である。其が凡庸な個人の上に翻《ウツ》された民譚・童話にすら、後世式な非難の添はないのも、かうした出発点があるからである。智慧あつて思慮の足らなかつたいなばの白兎[#「いなばの白兎」に傍線]の話なども、私に、単純な論理に遊ぶ癖があつたら、兎はおほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]、鰐どもは兄八十神を表したものと言ふ事も出来さうである。
さうした立ち場から、部分の類似をつきつめて行けば行く程、事実から遠のく。唯、円満に発達しきらぬ智慧の失策を見せたものとだけは、見ることが出来る。さうして此話が、おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の智慧の発達に、ある暗示を持つてゐるものと見てもよさゝうである。
仁の意味
白兎の話が示した人道風な愛は、残虐であり、猾智である所の倭なす神[#「倭なす神」に傍線]には、不似合ひの様に見える。併し、外に対しての鋭い智者は、同時に、内に向けての仁人であつたはずである。尠くも、さうあるのを望んだ事は、ほんとうであるはずだ。残虐な楽しみを喜ぶ事を知つた昔びとにして見れば、それの存分に出来る権能は、えらばれた唯一人に限つて許される資格と考へた事であらう。智慧・仁慈・残虐は、ぱらどっくす[#「ぱらどっくす」に傍線]ではなく、倭成す神の三徳と見る事も出来るのである。
泊瀬天皇ぐらゐ、純粋な感情のまゝにふるまうた人はなかつた。瞬時も固定せぬ愛と憎み、神獣一如の姿である。此点から見れば、おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]は、著しく筆録時代の理想にひき直されてゐる様である。あめのさかて[#「あめのさかて」に傍線]を拍つて、征服者を咀《のろ》うた一つの物語が、不調和に感じられるまで整理せられた性格の記述を裏切ると共に、かうした憤怒・憎悪・嫉妬を十分に具備した人として伝へられてゐたに違ひない。
村々の神主
日本歴史の立ち場から見た古代生活は、村を以てゆきづまりとする外はない。其以上は、先史遺物学者との妥協をめど[#「めど」に傍線]にした空想に過ぎない。文献によつて知る事の出来る限りの古代には、既にかなりに進んだ村落組織が整うてゐた。村限りの生活が、国家観念に拡つて来はじめたのが、万葉びとの世のはじめで、其確かな意識に入り込む様になつたのが、此論文の主題の結着である。
其以前は、村自身で、一つの国家と考へてゐた時代である。よその村は、敵国である。もつと軽い語で言へば、いつでも敵国となるはずの国々であつた。さういふ時代の話からしてかゝらねば、万葉びとの国民としての心持ちは、考へることが出来ない。
村を又、ふれ[#「ふれ」に傍線]・しま[#「しま」に傍線]とも、くに[#「くに」に傍線]・あがた[#「あがた」に傍線]とも言うたのは、此時代である。みち[#「みち」に傍線]・ひな[#「ひな」に傍線](山本信哉氏などは、あがた[#「あがた」に傍線]をも、同類に考へてゐる)と言ふ語《ことば》は、元はよそ国[#「よそ国」に傍線]・他国《ヒトクニ》位の積りが、遠隔の地方を斥《さ》す様になつたとも考へられる。あきつしま[#「あきつしま」に傍線]・しきしま[#「しきしま」に傍線]・やまとしま[#「やまとしま」に傍線]は、水中の島から出た語尾でなく、却つて村の意味の分化したものと見るがよからう。三つながら、枕詞或は、直様日本の異名として感じられる様になつて来た。それは、大和朝廷の、時々の根拠地になつてゐた村名に過ぎないのである。大和の北と真中の平原にあつた村々を支配するまでに、づぬけて勢力を持つて来たのが、山辺郡|大倭《ヤマト》を土台にした村だつたのである。
泊瀬の国・吉野の国などは、万葉にも平気に使はれてゐる。しま[#「しま」に傍線]ともくに[#「くに」に傍線]とも言ふ村が、大和一国にも、古ければ古い程多かつた。大和以外で言うても、国の名を言ふ村の数が、後世の国の幾層倍あつたか知れない。しま[#「しま」に傍線]は、くに[#「くに」に傍線]の古語と言うてよい様である。さうして、此しま/″\・くに/″\の中には、大和朝廷を脅かすものも多かつた。大和の国中でも、葛城の国などは、手ごはく感じられた印象を、記紀に止めてゐる。
飛鳥の村辺に、都の固定し出した頃には、国家の意識が、稍《やや》統一しかけて来たものと思はれる。此処まで来れば、どうしても大化の改新は現れなければならぬ訣であつた。あの改新の本意は、村本位の生活を国本位の生活に引き直す事であつた。段々勢力は失うて来てはゐたものゝ、尚盛り返さうけはひの見えた村を根拠とした豪族を、一挙に永劫に頭の擡げられぬ地位に置かうとする事であつた。此久しい前から、村の主長の意味の名なる国造・県主は、既に多くの貴いかばね[#「かばね」に傍線]に呼び換へられて居た。けれども尚、昔のまゝの称へが捨てられないで、国造・県主の称へを持ち続けてゐた家もある。尚遅れては、意義が変つた為、其かばね[#「かばね」に傍線]である事を忘れて、国造の上に、更にかばね[#「かばね」に傍線]を与へられたのさへ多い。
公認せられた国の外は、おほよそ郡と称せられて、国の数は著しくへつた。国々は凡てふれ[#「ふれ」に傍線](村)を語根にしたこほり[#「こほり」に傍線](郡)の名に喚び変へられて了うた。恐らく、郡といふ語は、わりあひに新しい語であつたのであらう。其でも、旧慣によつて、私に国名を称へるものもあり、言ひ改めてもなぜか郡を嫌つて、あがた[#「あがた」に傍線]或は、多く其形式化したがた[#「がた」に傍線]と言ふ呼び名を用ゐるものが多かつた。名こそ変れ、実は同じで、大体に以前の国を郡とした事と思はれる。だから、国が大きくなつたと共に、国が小さくなつたと言ふ事の出来るあり様であつた。
此様に、国と郡とは内容を異にしてゐる。だから、国造・県主は多く郡の長官に任ぜられたが、国司に登用せられる理くつはなかつたのである。新制度では、国造の名さへ廃した。でも、由緒久しい処では、容易に改りはしなかつた。其ゆゑ国造であつて、他のかばね[#「かばね」に傍線]を兼ね持つてゐるのがあつたのである。国造の職分は、事実、郡領になつても変らなかつたはずである。国造の名がなくなり、郡領になつたのを、豪族の勢力の落ちた唯一の現れと解釈する人があつたら、其は、考へがなさ過ぎる。
地方制度の整理・監督官庁の設置・豪族の官吏
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