化が、此改革の肝腎の精神であつたと思はれる。が、まだ一つ大事の目的が、外にあつたのである。国造の中、後世まで国造の称へを伝へた家々は、皆神事に与る筋である。事実亦、国造は地方々々の大社の為に、官幣を受けにも、上つて来た。国造と神主とを同じ意味に使うた例も多い。廃止の後も、郡領に神事を司したのは、国造が、神職の主座にゐた事を見せてゐるのである。
村の主長であつた国造が、同時に神主であると言ふのは、どうした訣か。神に近い者で、神の心を問ひ明らめる事の出来る者が、村人を神慮のまゝに支配してゐた、昔の村々の政治を見せてゐるのである。
さうした過去へ、一挙に我々の想像を誘ふのは、斉明紀に見えた「村々の祝部」と言ふ語である。文献に照して見ても、禰宜《ねぎ》は、祝部よりは遅れて出来た職名であるらしい。村の主長なる国造は、既に神事に与ること尠く、実務を祝部に任せる方に傾いてゐたらしい。併し、大事の場合には、勿論国造が、主任とならねばならなかつたものと思はれる。神職と言へば祝部を思ふ程、此職名の出てゐるのは、為事が岐れはじめて来た事を示すのである。
宮廷の神職であつた中臣氏が、別に大中臣氏を立てゝ、本家は藤原となつて、政権に近づいて行つたのは、此事実と似てゐる。が実は、国造の宗教を破却して、主長であつて、尚《なほ》教権を握つて居る為に、村々の民と離れない豪族との間を裂く為の促進運動であつたと見る方が、ほんとうらしい。
地方の大社に関する事は、国造の代りに国守をして執り行はせる事としたのも、名は旧慣に従ふ様に見せかけて、面目を一新しようとの企てが含まれてゐたのである。
国造の神に対しての関係は、子孫であるか、最《もつとも》神に親しかつた者の末であるかであつた。村人にとつては、神意は国造によつて問ふ外はない、とせられてゐた昔の記憶が、まだ消えきらない時代であつた。此をすつかり忘却の境に送り込まぬ間は、村本位の生活が、又現れて来ないとも限らなかつたのである。



底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
   1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
   1929(昭和4)年4月25日発行
初出:「白鳥 第一・二・三・四号」
   1922(大正11)年1、2、5、7月
※底本の題名の下に書かれている「大正十一年一・二・五・七月「白鳥」第一・二・三・四号」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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