た。愛も欲も、猾智も残虐も、其後に働く大きな力の儘《まま》即《すなはち》「かむながら……」と言ふ一語に籠つて了ふのであつた。倭成す人の行ひは、美醜善悪をのり越えて、優れたまこと[#「まこと」に傍線]ゝして、万葉人の心に印象せられた。おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]以来の数多の倭成した人々は、彼らには既に、偶像としてのみ、其心に強く働きかけた。
我々の最初の母いざなみ[#「いざなみ」に傍線]の行つたよみの国[#「よみの国」に傍線]は、死者の為の唯一つの来世であつた。而《しか》も其いざなみ[#「いざなみ」に傍線]すら、いつか、大空のひのわかみこ[#「ひのわかみこ」に傍線]に遷されて居る。此は、万葉人の生活が始まる頃には、もう兆して居た考へである。人麻呂は、倭成す人[#「倭成す人」に傍線]の死後に、高天[#(ノ)]原の生活の続く事を考へて居る。而も其子孫に言ひ及して居ない処から見れば、一般の万葉人の為には、やはり常闇《トコヤミ》の「妣《はは》の国」が、横たはつて居るばかりだつたものであらう。理想の境涯、偶像となつた生活は、人よりも神に、神に近い「顕《アキ》つ神《カミ》」と言ふ譬喩表現が、次第に、事実其ものとして感ぜられて来る。唯万葉人の世の末迄、あきつみかみ[#「あきつみかみ」に傍線]を言ふ時に、古格としては、と[#「と」に白丸傍点]のてにをは[#「てにをは」に傍線]を落さなかつたのは、意義の末、分化しきらなかつた事を示して居るのである。

     二

倭成す神は、はつ国|治《シ》る人である。はつくにしろす・すめらみこと[#「はつくにしろす・すめらみこと」に傍線]の用語例に入る人が、ひと方に限らなかつたわけには、実はまだ此迄、明快な説明を聴かしてくれた人がない。舌が思ふまゝに働く時を、待つ間だけの宿題である。
其と一つで、おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]だけが、倭成す神でなくて、神々があつたのである。神々の中、日の神を祀る神がはつ国しつた時に、母なる日之妻《ヒルメ》と、教権・政権を兼ね持つ日のみ子[#「日のみ子」に傍線]の信仰は生れた。日のみ子[#「日のみ子」に傍線]は常に、新しく一人づゝ生れ来るものとせられてゐた。日のみ子[#「日のみ子」に傍線]が、血筋の感情をもつて、系統立てられると、日つぎのみ子[#「日つぎのみ子」に傍線]と云ふ言葉が出来る。つぎ
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