幣束から旗さし物へ
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)語《ことば》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)人|相《あい》戒めて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]

 [#…]:返り点
 (例)封[#二]図籍[#一]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)蝦夷渟代[#(ノ)]郡[#(ノ)]大領

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)なる/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一

千年あまりも前に、我々の祖先の口馴れた「ある」と言ふ語《ことば》がある。「産る」の敬語だと其意味を釈《と》き棄てたのは、古学者の不念《ブネン》であつた。私は、ある必要から、万葉集に現れたゞけの「ある」の意味をば、一々考へて見た処、どれも此も、存在の始まり、或は続きといふ用語例に籠つて了うて、一つとして「産る」と飜《ウツ》さねば不都合だと言ふ場合には、出くはさずにすんだ。かの語を「産る」と説くのは、主に賀茂のみあれ[#「みあれ」に傍線]に惹かれた考へであるが、実の処みあれ[#「みあれ」に傍線]其物が、存在を明らかに認める、即、出現と言ふ意に胚胎せられた語だと信じられる。
此事は柳田国男先生も既に考へて(山島民譚集)居られる。尤、神或は神なる人にかけて、常に使ひ馴れた為、自然敬意を離れては用ゐる事は無くなつてゐた。其一類の語に「たつ」と言ふのがある。現在完了形をとつたものは、「向ひの山に月たゝり見ゆ(万葉巻七)」など言ふ文例を止めて居る。此語は単に、今か以前かに標準を据ゑて、進行動作を言ふだけのものではなく、確かに「出現」の用語例を持つて居た。文献時代に入つては、月たち[#「月たち」に傍線]・春たつ[#「春たつ」に傍線]などに纔かに、俤を見せて居たばかりで、敬語の意識は夙くに失はれてゐる。
諏訪上社の神木に、桜たゝい木[#「桜たゝい木」に傍線]・檀たゝい木[#「檀たゝい木」に傍線]・ひくさたゝい木[#「ひくさたゝい木」に傍線]・橡の木たゝい木[#「橡の木たゝい木」に傍線]・岑たゝい木[#「岑たゝい木」に傍線]・柳たゝい木[#「柳たゝい木」に傍線]・神殿松たゝい木[#「神殿松たゝい木」に傍線]があり、たゝい[#「たゝい」に傍線]は「湛」の字を宛てる由、尾芝古樟氏(郷土研究三の九)は述べられた。此等七木は、桜なり、柳なりの神たゝりの木[#「神たゝりの木」に傍線]と言ふ義が忘れられた物である。大空より天降《アモ》る神が、目的《メド》と定めた木に憑りゐるのが、たゝる[#「たゝる」に傍線]である。即、示現して居られるのである。神の現《タヽ》り木・現《タヽ》りの場《ニハ》は、人|相《あい》戒めて、近づいて神の咎めを蒙るのを避けた。其為に、たゝりのつみ[#「たゝりのつみ」に傍線]とも言ふべき内容を持つた語が、今も使ふたゝり[#「たゝり」に傍線](祟)の形で、久しい間、人々の心に生きて来たのである。
神に手芸の道具を献る事は、別に不思議でも無いが、線柱《タヽリ》の一品だけは、後世臼が神座となり易い様に、ひよつとすれば、神のたゝり[#「たゝり」に傍線]のよすがとなつた物かも知れぬ。絡※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]《タヽリ》・臥機《クツビキ》が夢に神|憑《ガヽ》りを現ずる事、姫社《ヒメコソ》の由来(肥前風土記)にある。機は、同じ機道具の縁に引かれたのかと思ふ。
神のあれ[#「あれ」に傍線]のよすがとなる物が、阿礼・みあれ[#「みあれ」に傍線]と呼ばれた事は、説明は要すまい。今日阿礼の事を書いた物は、すべて此語に言語情調の推移のあつた、後期王朝に出来てゐる。
賀茂祭りに、みあれ[#「みあれ」に傍線]に(としての意)立てた奥山の榊は、かなり大きな立ち木を採り(賀茂旧記)用ゐた根こじの物であつたらう。そして、種々《クサ/″\》の染《シ》め木綿《ユフ》を垂《シ》でる事が、あれ[#「あれ」に傍線]としての一つの条件であつたらしい。此際、内蔵寮から上社・下社へ、阿礼の料として、五色の帛六疋、阿礼を盛る筥八合並びに、布の綱十二条を作る料として、調布《テヅクリ》一丈四尺を出す(内蔵式)ことになつてゐる。其綱はみあれ[#「みあれ」に傍線]を舁ぐ時に、其傾く事を調節する為に、つけたものと思はれぬでも無いが、やはり祭りの終りにわが方へ引き倒して、一年の田畑の幸福を占はうとしたのが、一種の歌枕として固定するまでの、みあれひき[#「みあれひき」に傍線]の実際なのであらう。「大幣の引く手あまた」など言ふのも、引き綱がやはり、みあれ[#「みあれ」に傍線]の五色の帛の長くなつた物なる事を示してゐるので、木綿のさがつた小枝を引き折る事ではなかつた様である。後期王朝の人々の見たみあれ[#「みあれ」に傍線]の引き綱には、鈴がつけてあつたと見えて、
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われ引かむ、みあれ[#「みあれ」に傍線]につけて祷ること、なる/\鈴のまづ聞ゆなり(順集)
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とあるのは、西行の
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思ふこと みあれ[#「みあれ」に傍線]のしめに引く鈴の かなはずばよもならじとぞ思ふ
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と言ふ歌を註釈にすれば、まづ納得は行く様である。但、二人の間には、かなりの時の隔たりはあるが、要点はまづ変化の無かつたものと見られる。
山家集の作者の目には、其引き綱が、今日我々の見馴れてゐる鰐口の緒同様に映つて居たらしいが、殺伐な年占が、引く[#「引く」に傍線]と言ふ語の他の用語例を使うて、緩やかな祈願に移つて行つたものと見るべきであらう。昔も今も、歌よみなどは、大ざつぱな事を言ふ者で、語通りに信ずるのは愚かしくも思はれるが、今一つ引くと
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あれひきに行き連れてこそ 千早ぶる賀茂の川波立ち渡りつれ(古今六帖)
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の「行き連れ」は、行きずりの物見人が、偶然一つの方角へ行く、と解かれさうであるが、共同の幸福を願ふ人々の行く様と見るのが、時代の古いだけに、適当な様に思はれる。
大嘗祭の儀式に、八人の舞人がてん手《デ》に執つた阿礼木(貞観儀式)は、既《ハヤ》くとりもの[#「とりもの」に傍線]の枝を、直ちに然《シカ》呼ぶまで変つて居たのか、其ともまだ、此古い祭りには、古風なみあれ木[#「みあれ木」に傍線]が宮中に樹てられ、其木綿とり垂《シ》でた枝を折り用ゐたのか判然せぬ。賀茂或は松尾の阿礼ばかりが名高くなつたおとつ世の歴史家は、此を山祇系統の神の依代《ヨリシロ》と見るかも知れぬ。併しこゝにまだ一つ、宮中の阿礼がある。

     二

正月十七日の射礼《ジヤライ》に、豊楽殿《ブラクデン》の庭上、射手《イテ》を呼び出す人の控へる座の南一丈の処に、其日、夜の引き明けから樹てられる二種の立て物がある。すべて今日からは想像に能はぬ事だらけではあるが、一つは烏羅(からすあみ[#「からすあみ」に傍線]又はとなみ[#「となみ」に傍線]と訓むか)と言ふ物十二旒。各二株の竹の間に、二条の、長さ八尺・幅八寸の帛に鈴二つづゝつけて張り渡したらしく、色は縹《ハナダ》と緋とが六旒づゝであつた。其外に、今一つあるのが阿礼幡《アレバタ》である。右に六旒、左に六旒、紫・深緑・緋・緑・黄・浅緑と言ふ順序で、柄がつけてある。其外、花槍廿口・幡廿旒を樹てる(掃部式・兵庫式)。
烏羅と言ひ、阿礼幡と言ひ、他に見えぬ語であるが、此処の阿礼も、射礼の場《ニハ》に神を招《ヲ》ぎ下した古風と見られよう。尚かの兵庫式の文の後に、羅と幡とを樹てるに入用の木綿《ユフ》や黒葛《ツヾラ》は、大蔵の方で請ひ受けて来た様に書いてゐる。黒葛は物を纏《マ》く為であり、木綿はとり垂でゝ神に献る物である。
阿礼其他の立て物の竿頭のだし[#「だし」に傍線](郷土研究三の九)として、榊葉・木綿が括られたと見るか、竿の神聖を示す為に、其根方を樒の葉と葛蔓《クズカヅラ》で纏《マ》き厳《カザ》る野間《ノマ》権現の神霊を移す木(三国神社伝記)と同じ意味あひに使はれた物か、即決は出来る事でないが、阿礼幡が神の出現を待つ、やはり一つのあれ[#「あれ」に傍線]であつた事を証するだけには、役だつてくれる様である。さすれば、十二旒の阿礼幡を元は、一本の竿頭から長く垂れたあまたの染め木綿《ユフ》が、十二本の柄の尖《サキ》に別れる様になつたと考へるのは順当な想像であらう。
花時には花を以て祭り、鼓吹《コスヰ》・幡旗《ハンキ》を用《モ》つて歌舞《カブ》して祭る(紀一書)とある花《ハナ》の窟《イハヤ》の祭りは、記録のぺいぢ[#「ぺいぢ」に傍線]の順序を、其儘時間の順序と見る事が出来れば幡旗と言ふ語の、見えた初めである。此花と幡とは、縄で以て作つた(熊野三巻書)との古伝がある。縄で蓆旗をこしらへたとも見えぬ文面であるから、やはり竿頭から幾筋もの縄を垂れた物と見る外は無い。上代から然りと信ずる事は出来ぬにしても、尚江戸よりは古くの為来《シキタ》りと考へられる。
われ/\は、疑ひ深い科学者と肩を並べて生きて居るのだから、布よりも縄のゆふしで[#「ゆふしで」に傍線]を、無条件に古い物と速断する事はためらふが、竿頭から縄或は木綿を長く垂れた物をはた[#「はた」に傍線]と言うてゐた事は、認めない訣には行かぬ。われ/\の国語が、不変の内容を持つたまゝで、無窮の祖先から罔極の子孫に語り伝へられるものと考へるのは、やまとたける[#「やまとたける」に傍線]や義経も、石の槨《カラト》の口さへあければ、現代人と直ちに対話をまじへる事が出来ると信じる事である。
記・紀の叙述と、其に書記せられなかつた以前の語部の素《ス》の物語の語りはじめとでは、其昔と言ひ、今と言ふにも、非常な隔たりがある。記・紀に「ある」と書いてゐる事は、既に幾十百年以前に「ない」ときまつた事であるかも知れぬ。わりあひに変動の尠かるべきはずだからと言ふので、名詞の内容を千年・二千年に亘つて変らぬと考へる人は、通弁《ヲサ》なしに古塚に出かけて、祖先と応対が出来る訣である。
物に驚くこと、猶今日の我々の如くであつた祖先は、明治・大正の子孫が日傘・あげものと言はずに直ちに、ぱらそる[#「ぱらそる」に傍線]・ふらい[#「ふらい」に傍線]と言ふ様な、智慧ある無雑作は持ち合せなかつた。物と物とを比べて、似よりの点を見つけては、舶来の四角な字に国語の訓みをつけて置いた。其中に四角な文字其儘の事物が渡つて勢力を得る様になれば、国語の軒端を貸した固有の事物は、どん/″\と取りかへられて、母屋には何時の間にか、殆ど見知りのなかつた新しい事物が座りこんでゐると言ふ、直訳に伴うて起り勝ちの事実が、はた[#「はた」に傍線]と言ふ語及び品物の上にもあつた。

     三

語部が語り始めた頃のはた[#「はた」に傍線]は、今の日の丸の国旗の様な形と用途とを持つて居なかつたかも知れぬ。斉明天皇の四年、蝦夷渟代[#(ノ)]郡[#(ノ)]大領|沙尼具那《サニグナ》以下に鮹旗廿頭、津軽[#(ノ)]郡[#(ノ)]大領馬武以下にも鮹旗廿頭を授けられた(紀)のは、同族の反乱に当てる為であらうが、鮹と言ひ、頭と言ふのは、其旗の形容を髣髴させて、三巻書の縄の幡に近づかしめる。
字面通りに想像すれば、竿頭には円く束ねた物があつて、其から四方八方へ蛸の足の様に、布なり縄なりが垂れて居る形で、今日地方によつては、葬式の先頭に髯長く編んだ竹籠を、逆に竿頭につけて、紙花を飾つてふつて行く花籠なども、其に引かれて思ひ浮べられる。今日旗の竿|尖《サキ》につく金の球《タマ》や、五月幟の籠玉の源になる髯籠《ヒゲコ》(髯籠の話参照)の筋を引いた物に相違ないのである。まさかに縄のゆふしで[#「ゆふしで」に傍線]や、竹の髯籠や、花籠を下されたものとも思はれぬが、今の日の
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