丸の旗などゝは大分遠い、却つてばれん[#「ばれん」に傍線]などに似よつた形の物ではなかつたらうか。
もつと異風な幡は、前にあげた肥前風土記|基肄《キイ》[#(ノ)]郡|姫社《ヒメコソ》[#(ノ)]社《ヤシロ》の由緒に見える。姫社郷の山途《ヤマト》川の門《ト》(川口か)の西に、荒ぶる神が居て、道行く人をとり殺すので、其訣を占ふと、筑前宗像郡の人|珂是胡《カゼコ》に、自分を斎《イハ》はせれば、穏かにならうとあつた。珂是胡《カゼコ》、幡を捧げて祈るには「実際私に祀られようとの思召しなら、どなた様であるかお示し下さい。其には、其本処のお社に、此幡が風に乗つて行つて落ちます様に」と言うて、幡を挙げて、風に順うて放つた処が、御原郡の姫社之社に墜ち、再飛び返つて、山途川の辺の田村に来て落ちたので、神の在処《アリカ》が知れたとある。此幡、今日の人の考へに這入つてゐる旗の様な物ではなく、形は違うてゐるとしても、幣束と同じ用をした物である事だけは、否定が出来ぬ。
小子部《チヒサコベ》[#(ノ)]栖軽《スガル》が三諸《ミモロ》山の神を捉へに行つた時は、朱蘿《アカキカヅラ》をつけ、朱幢《アカキハタ》を立てゝ馬を馳せた(霊異記)と言ふ。神を捉へたと言ふのは、後期王朝の初めの人の解釈で、実はあかはた[#「あかはた」に傍線]を立てゝ、神を迎へた事を示して居るのである。神功皇后が小山田[#(ノ)]邑の斎宮に入つて、自ら斎主となり、武内[#(ノ)]宿禰に琴を撫《カキナ》らさせ、烏賊津《イカツ》[#(ノ)]使主《オミ》を審神者《サニハ》として、琴の頭・琴の尾に千※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]高※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]《チハタノタカハタ》を置いて、七日七夜の間神意を問はれた(神功紀)とあるのは、沢山の長《タケ》の高い幣束で琴の周りをとり捲いて、神依り板[#「神依り板」に傍線]に、早く神のより来る様に、との用意と見る外はない。
外国語学校の蒙古語科の夜学に通うた頃、満洲人|羅《ロオ》氏から、蒙古語で幣束を Hatak と言ふよしを習うた。其後、三省堂の外来語辞典が出たのを見ると、鳥居龍蔵氏が、はた[#「はた」に傍線]の語原を、蒙古のはた[#「はた」に傍線]即幣束に関係あるものとして居られた。此は恐らく、子音kを聴きおとされたのでは無からうかと思ふ。又、白木屋の二階であつた同氏の個人展覧会で、右のはたっく[#「はたっく」に傍線]の実物を見る事が出来た。柄はすべて一本の矢で、矢弭の処に、小さな銅鏡をつけ、五色の帛が幣束を思はせる具合に括りつけてあつた。東歌の
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山鳥の尾ろの秀尾《ハツヲ》に 羅摩《カヾミ》かけ、捉《トナ》ふべみこそ、汝によそりけめ(万葉巻十四)
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と言ふ歌は、依然として、謎の様に辿られるのみであるが、根本には、山鳥の秀尾《ハツヲ》を矧いだ矢に、鏡をかけたと言ふ幣束が、古い日本にも行はれて居た事実を、潜めて居る様な気がしてならぬ。
賀茂祭りや、射礼のあれ[#「あれ」に傍線]に、染《シ》め木綿《ユフ》をつかうたのも、右のはたっく[#「はたっく」に傍線]と似よつてゐる。白和栲《シロニギテ》・青和栲《アヲニギテ》の物さびしい色を神々しい物として、五色のしで[#「しで」に傍線]を遥か後れて世に出た物と思ふのは、却つてくすんだ色あひを喜ぶ、後世の廃頽した趣味からわり出して、物喜びをした、幼い昔の神におしあてたものと言はねばならぬ。
処が又、然《サ》る古代こがれでない人々から、近代風に謬られ相な、葬式の赤幡・青幡、降参の素《シラ》幡がある。

     四

お互にせはしない世の中に生れ合せて、紙魚《シミ》の住みかにおち/\と、見ぬ代の祖々《オヤ/\》と話し交しても居られなくなつた。其為に、心の底から古なぢみの様な気のせぬ物は、夙かれ遅かれ何時かの昔に、海のあなたから渡つて来た迄、影も形も、此土にはなかつたもの、と早合点にきめられて来た。和順の心を示す白旗の如きも、人によつては、とてつもない新舶来《イマキ》の代物と考へてゐるかも知れぬ。併し此は寧、純朴な物忘れであつて、二三、学問を享楽する事を知つた、譬へば、名ある者とし言へば、巾着切りの生《シヤウ》国迄も、自分の里にひきつけねば措かぬ物識りたちに、鼻のさきであひしらはるべきものではない。
古く、白旗を樹てゝ和順・降伏の意を現した、と見える事実はある。周防の娑※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《サバ》の魁師|神夏磯媛《カムカシヒメ》は、天子の使ひ来ると知つて、磯津《シツ》山の賢木《サカキ》を根こじにし、上枝《ホツエ》に八握《ヤツカ》[#(ノ)]劔、中枝《ナカヅエ》に八咫《ヤタ》[#(ノ)]鏡、下枝《シヅエ》には、八尺瓊を掛けた上に、素幡《シラハタ》を船の舳《ヘ》に樹てゝ、参《マヰ》向うた(景行紀)。又、新羅王は、素旆|而自服《アゲテマツロヒ》、素組以面縛、封[#二]図籍[#一]、降[#二]於王船之前[#一]といふ風で、念の入つた誓ひを立てた(神功紀)。後の方は、漢文の筆拍子に乗つたとも言へようが、前のもの迄、牛酒・三刄矛の一類と見るのは、聊か気の毒である。
唐ぶりとも見えぬ白旗は、此外にもある。行方《ナメカタ》郡|当麻《タギマ》郷の国栖の寸津毘古《キツビコ》が、倭武天皇に斬り殺された時、寸津毘売《キツビメ》の懼悚心愁、表[#二]挙白幡[#一]迎[#レ]道奉[#レ]拝(常陸風土記)とある話は、幼稚な詞藻をひねり廻した此書物ではあるが、出来心で筆が反れたものとは思はれぬ。
とにかく、前期王朝の頃には、戦争をやめる心を、てつとりばやく示す手段として白旗を竪てる風習を認めて居た事は、確からしい。だからと言うて、直様降服の意志表示と見るのは、早計であるかも知れぬ。何にしろ其処に歩みよる道順として、かう言ふ階段は経てゐよう。其は、汚《キタナ》き心なき由を、白幡立て、神を招《ヲ》ぎ下した場所で誓ふと言ふ、古い信仰形式の片われである。
思ふに、恐らく、語部の物語創作の際には、まだ明らかに、降服形式と迄は考へて居なかつたであらう。此白幡も疑ひなく、幣束の部に入るべき用途と形式とを、具へて居た物と考へる。神|招《ヲ》ぎ代《シロ》の幣束なる幣が、神の依り現《タヽ》す場《ニハ》の標《シルシ》となり、次いでは、人或は神自身が、神占有の物と定めた標《シメ》ともなり、又更に、神の象徴とさへ考へられる様になつたのである。私の話の順序から言へば、とりわけて白幡を用ゐずとも、よさ相に思はれる。けれども片方、故らに染《シ》め木綿《ユフ》でない事を示したのは、白和栲《シロニギテ》が、幣束として普通の物でなく、特殊の場合に限つて使うた物であつた故かも知れぬ。
白幡と似た青幡《アヲハタ》と言ふ物がある。あをはた[#「あをはた」に傍線]の木幡・あをはた[#「あをはた」に傍線]の忍阪《オサカ》の山・あをはた[#「あをはた」に傍線]の葛城山(万葉)など、枕詞に用ゐたのが、其である。何れも、山に関係のある処から旗の靡く様を山に準へたもの、と考へてゐる様である。枕詞成立の時代から言へば、此詞などは、中期に入れて然るべきものである。奈良の寺々に樹て並べた外国風の幢幡は、見も知らぬ飛鳥・藤原の宮人の口などから、生れたものと思はれる。白和栲・青和栲と対照せられるのから見ても、青幡の青和栲であつた事は、断言してさしつかへがなからう。而も、其ふつさりと竿頭から垂れた様を、山に見立てたものと思はれる。
黒坂命葬送の様は、赤幡・青幡入り交つて、雲虹の様に飜つて、野や路を照したので時の人、幡垂《ハタシデ》の国と言うたのを、後人が、信太《シダ》の国と言ふ様になつた(常陸風土記逸文)とある。死人の魂の発散を防ぐ為、ある時期の間は、殯《モガリ》に、野送りに、墓の上に、常べつたり[#「常べつたり」に傍点]の招魂の道具として、くさ/″\の染め木綿の幡を立てたのである。
此幡が、今様の旗でないことは、信太《シダ》の国の地名譚のしで[#「しで」に傍線]と云ふ語から見ても知れる。神の純化が遂げられてゐなかつた頃の人々は、目に見えぬ力として、現《ウツ》し世《ヨ》の姿を消した人の霊をも、神と一列に幡もて、招《ヲ》ぎよすべきものと信じたのである。
以上によつて、私の考へるはた[#「はた」に傍線]なる物の形は、略諸君の胸に、具象せられて居る事と思ふが、ほこ[#「ほこ」に傍線](郷土研究三の八・四の九)なる棒の先に、其名の本たるはた[#「はた」に傍線]と言ふ、染め木綿の類が垂《サガ》つて居たのである。後期王朝の初めには、幡其物に直ちに、神格を認める様になつて居る。別雷[#(ノ)]神の纛《オホハタ》の神(令集解)と言ふ、山城紀伊郡|真幡寸《マハタキ》神社などが、此である。而も、やはり「纛」の字面に拘泥してはならぬ。此神こそは、賀茂のはた[#「はた」に傍線]なるみあれ[#「みあれ」に傍線]を祀つたものと言ふべきであらう。
何処の国でも、大将軍は必、神を招《ヲ》ぎよせ、其心を問ふ事の出来た人であらう。倭建[#(ノ)]命東征の際に、父帝から下された柊の八尋矛(記)や、神功皇后の新羅王の門に、杖《つ》ける矛を樹てゝ来られた(紀)といふのも、刄物のついた槍の類ではなく、神祭りの幡桙であつた事は、奈良の都になつて、神祭りに関係ありさうな杠谷樹《ヒヽラギ》の八尋桙根が、累りに諸国から貢進せられてゐる(続紀)のを見ても、想像する事は出来ようと思ふ。尚、杉桙別《スギホコワケ》[#(ノ)]命神社・多祁富許都久和気《タケホコツクワケ》[#(ノ)]神社など、桙に関係ある社が、ざらに全国に分布してゐる(神名式)ことをも、傍証に立てる事が出来る。
比々良木八尋桙根底不附国《ヒヽラギノヤヒロホコネソコツカヌクニ》(播磨風土記逸文)とあるのから見ても、此桙は人を斬るものでなく、地に樹てゝ、神を祈る物なる事は訣る。桙を以て戦に出るのは、随時に随処に衝き立てゝ、神意を問ふことが出来る、と言ふことなのである。戦場往来に用ゐられた旗さし物は、此方面から這入るのを順路とすべき様である。

     五

学問に、常の歎きとする処は、興味の立ち遅れと言ふことである。研究の緒口《イトグチ》がつき始めた時分には、事実はあらゆる関係に、首尾両端を没して了うてゐる。此幡の問題の如きも、悉く外来の旗と習合を遂げた後、幾百年の花紅葉が散り過ぎて、後世風《オトツヨブリ》の源氏・楠家の旗だと称する贋物類までも、手に取ればぼろ/″\と崩れる様になつた頃、やつと物になりかけて来たのである。「武備志」を見ても、四神・牙神・牙旗神及び其他の旗神の祭文と言ふものが見えて、軍陣に神を勧請するのは我国の古風ばかりでなかつた事が知られる。但、此際にも直ちに、唐土伝来と言ふ即決だけは、つけぬ様にしたいものである。軍学者などの浅まな物識りぶつた説明に縋らずとも、旗さし物の起り位は説け相に思ふ。
旗を造り、旗を樹て、又其持ち出す際の斎戒謹慎の有様や、又其|蝉口《セミグチ》には、必、神符を封じ籠める(軍用記)故実も、少弐氏の旗の横上《ヨコガミ》に、綾藺笠《アヤヰガサ》をつけたのは、眷属の御霊の影向《ヤウガウ》あつて、蝉口に御座あるからとの家訓がある(梅松論)といふのも、支那風模倣とは言はれぬ程、古い種を有して居るではないか。熊野の湛増《タンゾウ》が、船に若王子の御正体《ミシヤウダイ》を載せ、旗の横上に金剛童子を書いて、壇の浦へおし寄せた(平家物語)といふのも、同じ影向勧請の思想である。「菊池の人々に向ひて、矢を放つ事あるべからず」とした牛王の起請文を、旗の蝉本に押して、少弐勢に見せびらかした(太平記)菊池方の皮肉も、旗に対する長い信仰の歴史の外に、勝手にひよつこり[#「ひよつこり」に傍線]生れた頓作ではない。
うはべは変つても、中身はやつれたまゝに、昔の姿を遺して居た旗も、武家末期の四半《シハン》のさし物を横にした恰好の国旗となつて了うては、信仰の痕は辿られさう
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