もなくなつた。軍人が身に換へて大事にする今の軍旗と言ふ物も、存外、信仰とは縁の離れた合理的な倫理観の対象となつてゐる様子である。併しながら、かく明治の代に、新な習合をした西洋の旗にも、実は長い信仰の連続はあつた様である。
此方面の研究は、南方先生の助力を仰がねば、容易に結論は得られ相でないが、西洋の旗幡類を大別すれば、すたんだぁど[#「すたんだぁど」に傍線]と、ふらっぐ[#「ふらっぐ」に傍線]と、並びに其中間を行く物との三つがある様に見える。而も本は、一つのすたんだぁど[#「すたんだぁど」に傍線]に帰着し相である。八尋桙根などをすたんだぁど[#「すたんだぁど」に傍線]に比べて見ると、幾分の似よりは見える。唯彼に在つては、異物崇拝の対象なる族霊(とうてむ)の像を柄《エ》頭につけるが、桙の方には其がない。尤、後世のまとい[#「まとい」に傍線]或は馬じるし[#「馬じるし」に傍線]・自身《ジシン》――又、自分・自身たて物・自身さし物・自分さし物などとも言ふ。御指物揃・馬じるし[#「馬じるし」に傍線]等――など言ふ類には、とうてむ[#「とうてむ」に傍線]から変つた物ではないかと思はれるのもある。私は、昔の丈部《ハセツカヒベ》(記・姓氏録・万葉)をば、支那風の仗人と見ずに、或は此すたんだぁど[#「すたんだぁど」に傍線]に似た桙を持つて、大将の前《サキ》を駆《オ》うた部曲《カキベ》かと考へて居る。
秀吉の在世の頃から、旗さし物類の発達は目ざましいものであつた。諸士皆競うて、さし物に意匠を凝して、注目を惹く事に努めた。秀吉・家康から、単にさし物の画や字が珍らしいと言ふので、賞美せられた者も沢山ある(武徳編年集成・寛政重修諸家譜・貞享書上其他)。其故、諸侯の家には、大小二種の馬じるしや、自身・さし物から、諸士・雑兵の番指物《バンノサシモノ》・袖印・腰印に至るまで、其数と種類の多いこと、驚くばかりである。さし物の多くは、元即興的に色々の物をさしたのが、却つてかやうに雑多な発達に導いたものらしい。長久手の戦ひの屏風絵には、籠を負うて、薄《スヽキ》などの青草をさした武者が、二三見えて居る。其が大阪攻めの絵巻になると、よくも僅かな年月の間に、かやうな変化を遂げたもの、と目が※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]られる程である。
薄をさしたさし物から、直ちに聯想せられるのは一本荻[#「一本
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