もあるだらうが、そんな人は、氣の毒な鑑賞者と言はねばならぬ。だが、其事實と虚構との關係の意義を思ふと、さう言ふ失望を感じると言ふことに、我々の文學的經驗の、練熟せられてないといふ感じもする。謂はゞ、剽輕な日記が飛び出して來たために、芭蕉の文學の其部分が破れて、虚構があらたな勢を以て、次の調和を求めて、心にひろがつて來るわけだ。
今日短歌の上で、文學としては虚構が許さるべきものだ、虚構を用ゐる意義のあるといふことは、誰でも認めてゐる筈で、たゞ其議論の立て方、論理の運び方が、問題にせられてゐるのだと言つてよい。だから、我々が其問題の中に入りこんで行つても、別に變つた、新しい事の言へる訣がない。たゞ近年、芭蕉から受けた衝動が非常であつて、繪空事・歌虚言に馴れた我々も、反省してみなくてはならなかつた經驗を新しくした。此經驗を思ひ返しながら、ある方角を別に考へて行くことだ。
我々の生活は、其生活を完成したものと信じて、其を文學の素材として用ゐるのである。一つの完全なものと想像してかゝつてゐる訣だ。ところが、表現の段になると、素材そのものが、不完全なものだといふ感じを度々うける。つまり、我々は度
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