々同種類、或は近似した、または飛び離れてはゐるが、經驗から推測出來る、いろ/\の生活の形を考へることが出來る。だから、我々が表現すべき素材として持つものが、安全なものと信じて表現する段になれば、それでいゝので、亦其を完全に表現するために努力するのが、眞の意味の表現技術だ。だが、我々の持つてゐる素材が、經驗と照し合せて見ると、不完全な部面を表すことが多い。だから、かうすれば素材として完全なものとなり、優れた文學を構成するだらうといふ考へは、屡起つて來る。意志の弱い作者は、素材を完全に表現する意力を缺いて、單なる虚構に陷ることが屡ある。それは文學の上の虚構として價値がなく、問題にならぬ。
文學の上の虚構に、かなり練達した作家として、島木赤彦をあげることが出來る。多くの場合、素材を忠實に表現するための技巧に苦しんでゐたが、單にそれのみでなく、事實はかうだが、かう素材の上に變更を加へた方が文學として優れてゐると考へて、素材を改めることが、あり過ぎる程あつた。我々の實際生活を、表現が完全にするのであるが、文學の上の生活としては、條件が事實、不備なことが多い。だから、さういふ意味に於て、完全な素材に變更して表現するといふ處に、文學の上の虚構の、眞の意味がある。實際の生活より、もつと完全な生活を求めるための虚構だと言ふことが出來る。たゞ、芭蕉にも見られることは、どうすれば文學的になるか、どうすれば藝術感豐かな文學になるかといふ立ち場から、素材を變更することは勿論ある。さうでなくて、素材が完全なものに變更せられて居つた場合でも、不幸な芭蕉の如く、剽輕な曾良の日記に裏切られて、完全に到達した素材が、一擧にして、極脆弱な、文學的なものを狙つたゞけの變更と思はれるものに、一時でもなることがあるのだ。虚構が問題になるといふ事は、いかにも作り物らしい生活が詠まれる爲に、起つて來ることであつて、完全な段階に達すれば、虚構が虚構だといふ曇りを拂拭して、そんな問題を起さぬところにしづまる訣だ。
赤彦の作物の中にも幾多の虚構を露呈したものもあるが、其を感じさせないところに達したものを、我々は引例することがいくらでも出來る。だから、作家が心構へとして、ふいくしよん[#「ふいくしよん」に傍線]を論ずるのは勿論さし支へのない事だが、必虚構あらざるべからず、といふ風に開き直つて言ふやうなことを言ふのは、意味
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