が、もつと重大な虚構が、芭蕉の傳記の一部に割り込んでゐるかも知れない。すると、其は文學と違ふのだから、芭蕉の虚構は、一種別なもらる[#「もらる」に傍線]の問題に觸れて來る。しかし、我々には其場合にも、芭蕉の文學が實生活にまで延長せられた名殘りを見ればよい。そこに、文學研究者に對して問題が、與へられてゐることになるのだ。
この句を見ても、芭蕉がいかに物寂しい日記に、色氣を添へようとしてゐるか訣る。芭蕉が此句を作つた文因ともいふべきものは、月は尾花とねたと言ふ、尾花は月と寢ぬといふ、小唄の古い型が、頭に働きかけてゐるので、萩と月の光りとを交錯させる表現に、遊女の情趣を含めたものが示されてゐるのだ。だからきつと、此句を作る過程には、一つ家に遊女とねたり、といふ形もとつてゐたらう。たゞさうすると、同じ一つ家に遊女と自分が、別々に宿つた一夜、といふ風には受け取らぬ人も出て來るので、此形に直したのだと取つてもいゝ。さういふところまで、芭蕉は事實を文學のために犧牲にしてゐる。だから、其處に到達するまでの道筋として、會はなかつた旅の女を出しさうな點も、不思議ではない。これで芭蕉の偶像を破壞してしまふ人もあるだらうが、そんな人は、氣の毒な鑑賞者と言はねばならぬ。だが、其事實と虚構との關係の意義を思ふと、さう言ふ失望を感じると言ふことに、我々の文學的經驗の、練熟せられてないといふ感じもする。謂はゞ、剽輕な日記が飛び出して來たために、芭蕉の文學の其部分が破れて、虚構があらたな勢を以て、次の調和を求めて、心にひろがつて來るわけだ。
今日短歌の上で、文學としては虚構が許さるべきものだ、虚構を用ゐる意義のあるといふことは、誰でも認めてゐる筈で、たゞ其議論の立て方、論理の運び方が、問題にせられてゐるのだと言つてよい。だから、我々が其問題の中に入りこんで行つても、別に變つた、新しい事の言へる訣がない。たゞ近年、芭蕉から受けた衝動が非常であつて、繪空事・歌虚言に馴れた我々も、反省してみなくてはならなかつた經驗を新しくした。此經驗を思ひ返しながら、ある方角を別に考へて行くことだ。
我々の生活は、其生活を完成したものと信じて、其を文學の素材として用ゐるのである。一つの完全なものと想像してかゝつてゐる訣だ。ところが、表現の段になると、素材そのものが、不完全なものだといふ感じを度々うける。つまり、我々は度
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