れを作るに到つた心もちは、極めて茫漠として居る。そこに、神歌を感じさせる様な、象徴性が出て来るのだ。「生ひば生ふるかに」の東歌に現れた民謡の古代式表現に、近代的の毛刻りを加へたと言ふ点に興味があり、又前の歌の様な類型の幾つかあつた末に、其を飜案したもの、幾分其に答へる気持ちを持つて居るものだとも言へる。
古今集・伊勢物語の「武蔵野は、今日は勿焼きそ。わかくさの つまもこもれり。我もこもれり」も、其相聞歌的に飛躍したものだ。かう考へて来ると、昔から、幾度でも/\更に緻密な解決を待つて居る様な象徴的な詞章があつて、其点が、代々の人々の心に触衝する事によつて、幾つもの歌謡が生れて来た。即、類型を生む歌には、必ある疑問を持たせる様な部分があつたのである。此歌などで見ても、何の為に、其が謡はれそめたか、疑はしい感じが唆られる。歌としては、風俗歌であり、寧、国俗諺《クニブリノコトワザ》の領分に這入り相なものなのだ。問題をつゝけばつゝく程、新しい疑問が幾らでも生じて、最後の忘却に達するまでは、重ね/″\の合理解を試みるのである。其為に、類型は幾らでも現れて来る次第なのであらう。
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