の状態で、之を具体化しようとして保つて居るある言語的刺戟で、暗示として、人の心に常に動揺してゐる。之を把握することによつて、新しい思想をもり立てる概念を捉へることになる。
だが其語自身の性質は、過去の言語の記憶の断片である事もあり、時代に起るべき思想を表象する言語である事も、あるのである。
「生ひば生ふるかに」以前に、その前型となるものがあるかも知れない。が、ともかく、「たゞ春の日に」の歌の如く、「任す」と言ふ考への、含まれてゐる事は事実である。「生ひば生ふるかに、まかせむ」又は「……まかせよ」など言ふ語が、気分的に融けこんでゐるのだ。さうすると、出て来る第二の問題は、右の様に、「生えるなら」と言ふ風に、「生ひば」が「生ふるかに」の前提として置かれてゐると解するがよいか、其とも、「けなばけぬかに」の例によるべきか、と言ふ点である。実は私は、此点は実例で、暗示させて置いて、説明は、一つも試みて居ない。「けなばけぬかに」「けなばけぬべく」が「けぬかに」「けぬべく」だけで示されることは、恐らく、前者が後者の旧形であつた事を意味するに外なからう。さうして、後者の様に簡単に、固定させてもよい理由が、何処にあるか。其については、「おもしろき野をば」なる語句から、説き出して見ねばならぬ。「おもしろき」は、既に一度述べた私の論文があるので、今は述べたくないが、「おもしる君が見えぬ此ごろ」「おもしる児らが見えぬころかも」など言ふ語で見ると、顔馴染が深いと言ふに近くて、尚始終鮮やかに幻影に立つとでも謂つた内容を含んでゐたらしく思はれる語である。仮りに釈すれば、「なつかしき……」などに、稍当るものであらう。「昨年のまゝな野のなつかしさ。それに其野を焼かうとすることよ。今既に旧草まじりに新草が生えようとしてゐる」と謂つた意味で、古くは、……任せむと言ふのではなかつたのではないか。又今一段単純に解して見ると、「旧草に新草まじり、生ふべく見ゆる[#「見ゆる」に傍線]なつかしき此野を焼くな」と言ふ意義としても、文法的には錯誤はない筈だと考へる。
何にしても、かう言ふ結論は、導いてさし支へはない様に見える。ある副詞句は、「かに」を以て形づくられた。其場合正式には、短文でも、条件の完全に呼応した文章を受けねばならなかつた。其「かに」が、後代に其と近い意義を分化した「べく」に、形式的に代用せられても、
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