。が、幾許とも知れぬ沢山の例を擁しての立言であることを思うて頂きたい。「かに」は、其自身欲する語と、自由な結合を作つて行く筈である一方に、かうした過去の制約に囚はれてゐるのであつた。
つまりは、語句・詞章及び其技巧の変化は、歴史の徐々たる「にじり歩み」であつたからである。又譬へば、「可消《ケヌベク》」にかゝるにしても、「零雪虚空《フルユキノソラニ》」「天きらし零来雪之《フリクルユキノ》」「豊国之木綿山雪之《トヨクニノユフヤマユキノ》」と言つた風に、重くるしい修辞を整へること、「佐保山に立つあま霧の」の場合と同じ事である。
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朝露に咲きすさびたる「鴨頭草之日斜共可消《ツキクサノヒタクル(?)ナベニケヌベク》」思ほゆ(同巻十)
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これなどは、殊に前述の心理過程を示したものと言へよう。「露」と「消ぬかに」「消ぬべく」との古い関係が低意識の間に隠見する訣なのである。表面に、鴨頭草の消ぬべき様を、自らの心の譬喩としたのである。其は一方、此花の「うつろひ」易き事を、知り悉《つく》してゐる心の一展開であつた。さうして更に、新しい技巧は、「日斜共」と言ふ説明を加へさせて来てゐる。さうして、第一句から第四句に亘つて、長い序歌に為立てた訣なのである。だが、かうした形も、単なる類型の追求が、表面の合理性を持つて来たもの、と言ふことが出来るであらう。
二
――おひばおふるかに
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おもしろき野をば 勿焼《ナヤ》きそ。旧草《フルクサ》に、新草まじり 於非波《オヒバ》、於布流我爾《オフルカニ》(万葉巻十四)
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此歌に現れた文法は、「消ぬかに」とは、毫も交渉の認められない特殊なものに違ひない。唯「かに」の用語例の、古い確実性を保つてゐるものゝ一つである。「生ひば生ふるかに」が、其である。唯近代の理会からは、「生ひば、生ふる」の活用問題は別として、一つの疑問が残されてゐる。
まづ、人は此歌から感得する情調を分解して「生《ハ》えるなら生えるに任せておけ」と言ふ解釈を心に持つだらう。
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焼かずとも 草は萌えなむ。春日野は、たゞ春の「ひ」に、まかせたらなむ(新古今巻一)
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と言ふ歌は、即興歌として、執拗ではない処に、興味を感じさせるが、実際こ
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