後代の「君が在まさぬ現状にありとも」「無価宝珠と言ふものなりとも」と謂つた風に、説明出来る様になつたのである。
もつとよく考へると、「ことゞはぬ木にはありとも」と言ふ句は、此歌以前にすでに、幾多の類型を以て、木精・石精等のことゞはぬ事を力強く述べて居た、その諺を下に持つて言つてゐるのだ。だから「木はことゞはぬやうに呪服せられてゐる」と言ふ事は知つて居るが、と過去の知識の引用があるのである。だから第一には、「ことゞはぬ木にはありとも、さる諺の如くはあらずして」と言ふ意が含まれてゐたのである。其が更に一飛躍して、新しい文法的職分が出来ても、同じく「琴の木にしあるべし」と謂つた呼応を作つて行く訣なのだ。
「山川を中に隔《ヘナ》りて遠し」といふ発想法は、極めて古くからあり、又近代的にも喜ばれて居たもので「山河毛隔莫国」「海山毛隔莫国」「あしびきの山乎隔而」「あしびきの山河隔」「高山を障所為而《ヘダテ(?)ニナシテ》」「高山を部立丹置而《ヘダテニオキテ》」「山川乎奈可爾敝奈里※[#「低のつくり」、第3水準1−86−47]」「山河能敝奈里底安礼婆」など、万葉ばかりでさへ、幾多の類想が、久しく行はれた事を思はせて居る。其うち、殊に山河を対立させたものが、尤好みに叶うたと見える。さてその所謂「山川隔る……」と言ふ風俗諺[#「風俗諺」に傍点]のもあるが、と言ふ意味を含めて居るのが、「山川を中に、へなりて遠くとも」である。だから第一義としては、「山川を中に、へなりて遠し」と詞にありとも、我らは遠からず、と言ふ内容を見ねばならぬ。第二義の飛躍が、『「山川を……遠からず」して、近く思ほせ』と言ふ事になるのだ。
必しも純粋な諺でなくても、同じ様に考へられるものなら、何でもかうして、「とも」を以て、受けることになるのだ。さうして、此「とも」の受け方の特徴は、諺的の詞句が、固定した形のまゝでなくてもよい事で、自由な発想や、理会や感情を加味してもよい処にある。つまりは、前型を近代式に言ひかへて、さし支へない点があるのだ。
さうした習慣が、此と同様な方法を分化せずには居ない。必しも古来の詞章・故事熟語的のものでなくとも、任意にさうした発想は出来る訣である。「にほとりの息長川は絶えぬとも」などの場合が、其である。必しも息長川に対して、「絶ゆ」、「あす」など言ふ語句が来なくとも、他の川について言ふ類型で
前へ 次へ
全17ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング