ったり、平凡になったりして動揺して行く。其姿を大きな波のうねりの様に、まざまざと書いている。
此外に、表面は源氏の実子になっている、薫君と言う男の子がある。母は源氏が年いってからの三番目の北の方で、朱雀院の御子《みこ》、女三宮《おんなさんのみや》である。源氏の若い頃、藤壺[#(ノ)]女御との間にあった過ちと同様、内大臣の長男柏木と女三宮との間に生れた子である。源氏は其事を知って、激しい怒りを、紳士としての面目を保って、無念さをじっとこらえ通している。
時経てから、源氏が出た或酒宴で、柏木も席に列《つらな》っていたが、内心の苛責《かしゃく》から、源氏に対して緊張した態度をとっている。其が却《かえ》って源氏の心の底の怒りに触れて来る。そして源氏は柏木を呼んで、酔い倒れるまで無理強いに酒をすすめる。柏木は其が原因で病死する。源氏が手を下さずして殺した事になる訣《わけ》だ。殺すという一歩手前まで迫った源氏の心を、はっきりと書いたのが、若菜の巻の練熟した技術である。美しい立派な人間として書かれて来た源氏が、四十を過ぎて、そんな悪い面を表してくる。此は厭《いや》な事ではあるが、小説としては、扱いがいのある人間を書いている訣である。大きく博《ひろ》く又、最人間的な、神と一重の境まで行って引き返すといった人間の悲しさを書いている。作者に、其だけの人間の書ける力が備っていたのである。此だけの大きさを持った人間を書き得た人は、過去の日本の小説家には、他に見当らない。
源氏物語は、男女の恋愛ばかりを扱っているように思われているだろうけれど、我々は此物語から、人間が大きな苦しみに耐え通してゆく姿と、人間として向上してゆく過程を学ばなければならぬ。源氏物語は日本の中世に於ける、日本人の最深い反省を書いた、反省の書だと言うことが出来るのである。



底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
   1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年4月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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