反省の文学源氏物語
折口信夫

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)寵愛《ちょうあい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)数|个《か》所

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)光る[#「光る」に傍点]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)藤壺[#(ノ)]女御

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
(例)名のみこと/″\しう
−−

源氏物語は、一口に言えば、光源氏を主人公として書かれた物語である。此光る[#「光る」に傍点]と言うのは、我々の普通に考える様な名とは、少し違った意味を持っている。女の方に例を取って見ると、源氏の生母桐壺更衣の没後、父桐壺の帝の寵愛《ちょうあい》せられた藤壺[#(ノ)]女御を、「かゞやく日の宮」と書いている。人間の容貌をほめる為に、ひかる・かがやくなど言う言葉を使ったので、良い意味のあだ名の様な名づけ方なのである。光君は桐壺帝の二番目の御子《みこ》で、帝が次の天子の位に即《つ》けたい、と考えられた程可愛くお思いになっていたが、いろんな関係でそれが出来なかったので、臣下の位に下げ、源の姓を与えられた。併、これも後に源氏平氏と対称して考えられて来る、あの源氏と違った内容を持っている。此事については少し説明しなければならぬ。
昔の宮廷は、我々が考える程、政治的に大きな勢力を持っていられた訣《わけ》ではない。唯、神を祭り、神に接近した生活をしていられた為、信仰上の中心となっていた、其が習い久しく、中世になっても、宮廷を上に据えない形の世の中と言うものは、考えられなかったのである。政治上の実権を持っている豪族達にとっては、此宮廷を自分の方へ寄せて来る事が、何よりも必要であった。天子の御子が幾人もおいでになる時は、古代には、各の豪族が、御子を引き取って養育し、自分達の方で育った方を次の位にお即けしようとして、争いを起す事さえあった。そうした幾世の後に、花のような藤原氏の時代が来た。藤原氏一族が勢を専にした時代の歴史を顧みて、どうしてあれ程、宮廷が圧迫されていられるように見えるのだろうと思うが、実際は、そう言う長い歴史を経て来ているのだから、そう言う狎《な》れた気持ちでいるようになったものである。こうした事情で、だんだん激しくなる将来が予感せられて来て、此儘《このまま》ではどの様な世の中になるか測り知れないと、其対策が自ら浮び上って来た。其結果、皇族を臣下の列に加えて、力の有る者を作ろうと言う事が、奈良朝頃から行われた。平安期の初期には、其が殊に盛んである。こうした人達には、源氏を名のる者が多かった。其為に、源氏を称することを許された人が源氏であるのを、更に一番多い称号だという所から、皇族から臣下に降下した人をすべて、源氏と汎称《はんしょう》する様になった。其人々の中で、殊に人がらも優れ、容貌も優れていた人の事をしるした物語と言う意味で、昔から「源氏の物語」又は「ひかる源氏の物語」と言っていた。帚木《ははきぎ》の巻のはじめに「光源氏、名のみこと/″\しう言ひけたれたまふ。……」と書かれているのも、「光り輝く皇族出の公子、噂ばかりでは、何だ彼だと大げさに悪口なども言われていらっしゃる。……」まあこう言う風の表現なのである。

    ○

源氏物語は何時頃書かれたかと言う事も大事だが、其よりもっと大切な事は、何時の時代を書いたか、と言う事である。源氏物語の世界は、平安朝に這入《はい》って凡《およそ》十代を経た時代、皇族から臣下に降《くだ》る事はまだまだ行われていたが、どうしても藤原氏の勢力に押され、そうした運動の無謀さが省みられ、凡情熱の磨滅せられ出した宇多・醍醐の帝の時代を書こうと言う、漠とした予期があったのである。此は、紫式部の時代より数代前の事になる。こうした歴史に沿った物語を書く場合には、不断聞いたり見たりしている人の事が、自らもでる[#「もでる」に傍点]となって出て来るものである。源氏物語の中にも、これは誰がもでる[#「もでる」に傍点]だと言われる類型は沢山あるが、光源氏のもでる[#「もでる」に傍点]だと言われるのは、部分部分では、いろいろな人を思わせるような書きぶりがあるが、全体としては、平安朝を通じて、最著しい藤原道長を目標においているようである。此人は、後の人々からは、おもしろくない人の様に見られているが、昔の人は、今の人の思うよりも、もっとゆったりした世界に住んで、非常に大まかな生活をしていたのである。光源氏の成熟し切った生活の様子は、その道長の盛んな生活ぶりを、おおらかに胸に持ち、はぐくみ乍ら作者がうつし出したものと考えてよい。源氏物語には又、女源氏と言われる
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング