信じられていた程である。これは其時代の人々に、小説と言うものが人生の上にどんな意義を持っているか訣らなかった為である。源氏物語は、我々が、更に良い生活をするための、反省の目標として書かれていた訣を思わないからである。光源氏の一生には、深刻な失敗も幾度かあったが、失敗が深刻であればある程、自分を深く反省して、優れた人になって行った。どんな大きな失敗にも、うち負かされて憂鬱《ゆううつ》な生活に沈んで行く様な事はない。此点は立派な人である。
こうした内的な書き方だけでは、何としても同じ時代の人の教養では、理会せられそうもないから、作者は更に、外からは源氏の反省をしめあげる様な書き方をしている。すべて平面的な描写をしているのだが、源氏の思うている心を書く時は、十分源氏側に立っているのだし、客観的なもの言いをしている時は、日本人としての古い生活の型の外に、普遍的なもらある[#「もらある」に傍線]があるのだと言うことを思わせるようになっている。其は、因果応報と言う後世から平凡なと思われる仏教哲理を、具体的に実感的に織り込んで、それで起って来るいろんな事件が、源氏の心に反省を強いるのである。源氏がいけない事をする。それに対して十分後悔はしているが、それを償う事は出来ないで、心の底に暗いわだかまりとなって残っている。所が時経て後、其と同じ傾向の事を、源氏が他人からされることになって来る。譬《たと》えば、源氏が若い頃犯した恋愛の上の過ちが、初老になる頃、其最若い愛人の上に同じ形で起って来る。源氏は今更のように、身にしみて己の過ちを省みなければならぬのである。内からの反省と外からの刺戟《しげき》と、ここに二重の贖罪《しょくざい》が行われて来ねばならぬ訣である。此様に、何か別の力が、外から源氏に深い反省を迫っている様に感じられる書き方が、他の部分にも示されている。源氏が、権勢の上の敵人とも言うべき致仕太政《ちしだじょう》大臣の娘を自分の子として、宮廷に進めようとする。其時になって、此二人の後備えとも言うべき貴族に、途から奪取せられてしまう。こう言う場合、此小説の書き方が、極めて深刻であり、其だけにまた、強い迫力をもって来る。
近代の小説家の中にも、其程深いものを持っている訣ではないが、小説として書かれたものを見ると、相当に高い精神を持ったものを書くことの出来る人がないではない。其は其人が
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