書いているうちに、其人の実際持っているもの以上に、表現に伴うて出る力があって、ぐんぐんと出て来るのである。源氏物語の作者にも、勿論そうした部分が十分に認められる。寧《むしろ》此力が異常にはたらいている為に、ああした遥かなと言っても遥か過ぎる時代に、あれだけの作物が出来たのだと言うことが出来る。
我々が此物語を読むについて、も一つ考えてみなければならぬ事がある。作家が小説を書く場合には、予め、どう言う事を書こう、それにはどう言うてま[#「てま」に傍線]を持って来なければならぬと心に決めてかかる訣である。
所が譬えば大石内蔵介を主人公として書こうとするのに、彼が京都でどんな生活をしていたとか、討入りの前日に何をしたとか書いている小説があるとする。思いがけない解説を聞いて読者は此が小説の本領だと思う。知性の勝った読者の殖えた時代には、そうなるのは当りまえである。だが本とうは作者自身の考えで内蔵介の生活を設定して、作者の考えた型へ内蔵介を入れてしまう事になるのである。そうしたものが、小説として価値のある作品だと考えられ易いが、此はよく考えてみなければならぬ問題である。源氏物語を書くのに、作者は何を書こうとしたかと言うと、源氏が一生に行った事にあるのではない。源氏の生活の中から、作者が好みのままに選択して、こう言う生活をした人に書こうという風に、或偏向を持った目的に源氏が生きて行っているように書かれたと思うのは、どうかと思う。源氏自身が其生活に、我々の考えるような目的を常に持ってしている訣ではない。唯人間として生きている。ところが源氏という人間の特殊な性格と運命が、源氏の生活を特殊なものにして行っている。併、たとえば実在の人物として考え、後から其生活を見ると、自ら一つのまとまりがついていて、此方向へ進もうとして居たことが考えずには居られぬ。そこに人生の筋道が通っているのである。唯作者が勝手にぷろっと[#「ぷろっと」に傍線]を持って作った型ではなく、源氏の生活の中に備っている進路に沿って書いているのだと言える。即そこに昔の日本民族の理想の形と言うものが現れて来るのであり、日本人の生きようとする方向を、源氏という生活者を一つの例に取って、示している事になる。
皮相な見方をすれば、源氏物語は水のあわ[#「水のあわ」に傍点]のようにあとかたもないうわうわ[#「うわうわ」に傍点]した作
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