人達が出て来る。此は先に言った源氏と同様に、女の皇族であって臣下に降った人という意味から出てるようではあるが、所が此女源氏の中には、更に皇后や中宮の位に上っている方々もある。或女性が皇后・中宮と言った地位につかれるのに、一旦臣下に降って、再召しあげられて宮廷に這入られると謂《い》った形をとられたものと見るべきであろう。これには古くからの信仰上の理由がある。大昔の宮廷では、皇女は生れながらにして、巫女《みこ》となって神に仕える宿命を持って此世に現れられるものと考えていた。皇女が結婚する事は考えられなかった。源氏物語にも数|个《か》所、帝の御むすめは夫を持たぬものだと言うことが記されている。伊勢の斎宮・加茂の斎院など、其著しい例である。それで若《も》し皇女が結婚なさる場合には、先、皇族の籍を離れると言う形を採ると言うことになっていたのであろう。或場合の結婚――内親王が貴族と結婚せられるという時は、其まま貴族の家へ客として行ってしまわれる。が、実は其貴族と結婚生活にお這入りになったのだ。そう言う形の降嫁式もあったのである。皇女である方が、皇后・中宮になられた場合、女源氏と称する訣《わけ》もこれで訣《わか》るのだ。
光源氏を中心にして、こうした宮廷の女性や、又は貴族の婦人等が、それぞれいろんな形で触れ合ってゆく様子が、此物語に大きく繰り拡げられている。併、此物語の書こうとする主題は、そう言うところだけにある訣ではない。

    ○

人によっては、光源氏を非常に不道徳な人間だと言うけれども、それは間違いである。人間は常に神に近づこうとして、様々な修行の過程を踏んでいるのであって、其ためには其過程過程が、省みる毎に、あやまちと見られるのである。始めから完全な人間ならば、其生活に向上のきざみはないが、普通の人間は、過ちを犯した事に対して厳しく反省して、次第に立派な人格を築いて来るのである。光源氏にはいろんな失策があるけれども、常に神に近づこうとする心は失っていない。此事はよく考えて見るがよい。近代の学者は、物事を皮相的にしか考えなかった訣ではないが、教えられて来た研究法が形式倫理以上に出なかった。源氏物語を誨淫《かいいん》の書と考え、その作者紫式部の死後百年程経て、式部はああ言ういけないそらごと[#「そらごと」に傍点]を書いた為に地獄へ堕《お》ちて苦しんでいる、と言うことさえ
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