る「小堀」に鳥・魚がついたのである。即、小《コ》である。ぐわあ[#「ぐわあ」に傍線]は之と別に成り立つた語で、古くはがま[#「がま」に傍線]であつたらしい。先に出た首里大巫の幼巫を以てした「のろがま」も同じ語である。又、那覇由来記にある「いべがま」は墓であつて、窟《ガマ》ではない。いべ[#「いべ」は太字]は神性を表す語だから、「神小」又は「小神」といふ位の称号が、古塚について残つたのだらう。
姓名の語序も、近代に及んでも、やはり逆で通して居た例が多い。明治卅七年に書いた『よきや(与喜屋)のろくもい[#「のろくもい」は太字]由来並家譜』には、家長は代々「比嘉筑登之親雲上《ヒカツクトンペイチン》」と呼び、比嘉《ヒカ》が家名である。その外はたとへば、「加那比嘉」「山戸比嘉」「武太比嘉」「蒲戸比嘉」など皆幼名のまゝである。「武太比嘉の子の山戸比嘉」「まつ比嘉」など記録してゐる。正式の呼び名ではない童名だが、其だけに古風であり、一般性のある名で、沖縄の名家に生れて継承しなかつたのは、かう言ふ呼び方をせられるのが普通であつたのである。即、家名・姓が逆語序になつてゐる訣だ。遠い琉球の昔には、姓を称へなかつた筈で、昔の君主なども、追号が多い。唯、童名《ワラベメ》――と言ふより通称――に、字を宛てゝ、しかつめらしく見せたものゝ多いことは、既に東恩納寛惇氏・伊波普猷氏らの研究で明らかになつてゐる。地名や、家名から、姓に変つて行つたものゝ多いことは疑ひがない。
琉球王宮廷は、一つの特殊な民俗圏を画して、沖縄本島自体や、島々の民俗に対して居る部分が多い。固定した知識として、極めて古いものを、文献的にも、伝承的にも保存してゐた。その中でも、さうした知識の維持機関のやうになつたのは、宮廷及び其に附属してゐた島々の巫女――を綜合した、女官(大巫)の信仰の上にあつた。私は此から、幾つか、例をあげて行きたい。

     二 特殊な意義分化の例としての「かなし」

敬称の接尾語の、人間に対して言ふ最高いものは、極めての古代は別だが、さうした統一の行はれるやうになつてからは、「かなし」が一等上級のものゝやうである。国王も妃・嬪も高巫も大体おなじ称号であり、之にならつて王族たちも、其に敬称を統一したやうだ。更に古くなると、まち/\で統一してゐないやうだが、素朴な姿の見えるものは、きみ[#「きみ」に傍線]であらう。王にも、大巫にも用ゐてゐるのだが、多くは巫女の称となつて、「三十三君」などと、汎称するやうになつた。
第二は恐らく、あんじ(按司)であらう。此は男性には、貴族・領主の称号として通つてゐる。が、あじ[#「あじ」は太字](按司)と単音化するやうにもなつた。語から見れば、あるじ[#「あるじ」に傍線]の音化したものとも言へるが、かわら[#「かわら」に傍線]といふ敬称と対句になつてゐるのだから、その点も考へねばならぬ。男にかわら[#「かわら」に傍線]→ちやら[#「ちやら」に傍線]→さら[#「さら」に傍線]といふ如く、女性にもをなさら[#「をなさら」に傍線]・をなちやら[#「をなちやら」に傍線]など言ふ。勿論あんじ[#「あんじ」に傍線]は女性の尊称としても、多く使はれた。其上、あんじ[#「あんじ」に傍線]には、諸侯階級を示すやうな慣用が著しい。
あんじ[#「あんじ」に傍線]とかなし[#「かなし」に傍線]とを重複させると、敬意が深くなる。王妃又は其に相当する尊称であつた。複合する敬称は、こゝには省くが、さうした複合の為に、かなし[#「かなし」に傍線]などの敬意表現の程度が弛緩して来たらしい。恐らく王又は最高巫に使つたらしいかなし[#「かなし」に傍線]が、相当に自由に用ゐられたのであらう。琉球最上の女性が王妃と言ふことになつたのは、尚質の代からである。其までは、宮廷の大巫、きこえおほきみ[#「きこえおほきみ」に傍線](聞得大君)が神に親近する関係から、最上位の女性であつた。国王を天かなし[#「天かなし」に傍線]・首里かなし[#「首里かなし」に傍線]と呪詞の上では言つてゐるのと同様である。あんじ[#「あんじ」に傍線]の場合も、尚円を神号「金丸按司添《カナマルアジソヒ》」、尚清を神号「天続之|按司添《アジソヒ》」、尚元を「月始按司添」、尚寧を「目賀末《メガマ》按司添」、尚豊を「天喜也末按司添」とつけてゐる。明の崇禎十四年、王位に即いた尚賢以後は、神号が絶えてゐる。添はおそひ[#「おそひ」に傍線]で、「浦添」など記されてゐる襲に当るもので、合理的に解釈すれば、按司たちを支配するものだから、襲――添をそへて「按司添」と称したととれる。が、添の義はさうであつても、既に敬称が重複してゐるものと見てよい。でないと、按司の尊称たる謂はれがなくなる。その後、貴族一般に用ゐるやうになつて来たから、如何にも王号としては、不似合に感じて、更に別の敬称を重ねる様になつたものと見るべきであらう。初代の尚円を、按司添など称するのは、如何にももの/\しい。遥か後の追号としてさうなつたのである。「金丸按司」だけで通用したものであらう。
琉球では童名を為来《シキタ》りの上から重んじてゐる。其は古くは、童名だけだつたのである。だから、王でも神号がなければ、童名のまゝ伝るのであつた。王号は其に加へるやうになつたものである。童名も、古いのを並べて見ると、意味が見出される。
思徳金《オミトクガネ》(尚円)。音智殿茂金(尚円女、聞得大君)。於義也嘉茂慧《オキヤカモヱ》(尚真)。思戸金按司加那志《オミトカナアジカナシ》(尚真夫人)。思徳金(子、浦添王子)。真武礼金(同子、今帰仁王子)。真三良金《マサンラウガネ》(同子、越来王子)。尚清は童名真仁尭樽金。妃は、思銭金按司加那志、夫人(1)[#「(1)」は縦中横]真鶴金《マツルガネ》、夫人(2)[#「(2)」は縦中横]真美那古金《マミナコガネ》、夫人(3)[#「(3)」は縦中横]真世仁金。尚清子の中、伊江王子は童名金千代金と伝つてゐるのは、伊江家の元祖として、其家での伝へだらう。童名は近代に到るまで、正式にはかね[#「かね」に傍線]を敬称語尾に持つてゐて、男女に通じてゐる。といふよりも、元から区別のなかつたものと見るべきであらう。
日本の古語中世語に渉つて、かなし[#「かなし」に傍線]はかはゆい[#「かはゆい」に傍線]・いとしい[#「いとしい」に傍線]・愛すべきもの[#「愛すべきもの」に傍線]或は繊細なものを意味してゐた。糸を言ふかないと[#「かないと」に傍線]略してかな[#「かな」に傍線]、蛇に似て繊細なるが故のかなへび[#「かなへび」に傍線]はとかげ[#「とかげ」に傍線]であつた。娘の名にもかな[#「かな」に傍線](半固有名詞)が多かつた。幼童の鍾愛に堪へぬ者をかな法師[#「かな法師」に傍線]と言つた。かなし[#「かなし」に傍線]は古い形容詞であり、かな(かね)はその語根だつたのである。琉球王族等の童名の「金」は先祖金丸王の金と関係してゐるのだ。が、固よりかなし[#「かなし」に傍線]と近接した関係から、敬称と童名とに残つた訣だ。恐らくあらたまつた[#「あらたまつた」は太字]感情を添へて言ふことを続けたのが、敬称になつたもので、一方には、馴れ/\しい感情で呼びかけるのだから、熟称とも言ふべきものとして童名のあと[#「あと」に傍線]につくものと固定化させた。此が尊称と熟称とに分れたゞけの事である。熟称なるが故に、語根だけになり、尊称なる故に正式にかなし[#「かなし」に傍線]といふ形を持ち続けて行つたのだ。其には今一つ、日本の愛すべきもの[#「愛すべきもの」に傍線]と言ふのと、琉球の尊いもの[#「尊いもの」に傍線]といふのとでは、おなじかなし[#「かなし」に傍線]、かな[#「かな」に傍線]が、心に融合しては受けとれない。其には、も一つの感情の流れがある。
かなし[#「かなし」に傍線]名のついた女君の中、注意すべきは、伊平屋《イヒヤ》の阿母嘉那志《アンガナシ》である。尚円の姉の系統をつぐものとして、離島女君の中第一に置かれてゐる。女性に対する親称で、目上に言ふ。母、伯叔母の義。あんがなし[#「あんがなし」に傍線]はかなしあも[#「かなしあも」に傍線]の逆語序である。
かなし[#「かなし」に傍線]は可愛い[#「可愛い」に傍線]だが、尊敬すべきもの[#「尊敬すべきもの」に傍線]と直に変化したのではない。思ふに「神によつて愛せられるもの」と言つた考へ方から、「さうした神鍾愛の人」と言ふことによつて、特定の人をさし示し、神の恩寵に与らしめ、禍から守らうとした――さうした、此は神の愛すべき人として、神に向つて指示したのが、「……かなし」であつた。「金」の場合は、一層よくわかる。童子なるが故に幼年から成人するまで、神の恩寵を保証して、かね[#「かね」に傍線]或はかな[#「かな」に傍線]と言つたのが、かね[#「かね」に傍線]と音が固定したものと思はれる。其は、おなじ童名にまだ類例がある。此も男性女性に通じて、多くついて居り、金と併用し、又は別々に使つた「思」である。尚円は思徳金であり、尚真は真加戸樽金で、「思」は見えぬやうだが、神号|於義也嘉《オキヤカ》茂慧《モヱ》[#「茂慧《モヱ》」に傍線](又は、おきやかもい)が「思」の存在を示してゐる。おきやか[#「おきやか」に傍線]は名の根であり、もい[#「もい」に傍線](茂慧)は「思」である。其は父尚円の妃世添大美御前加那志と言はれた人の童名宇喜也嘉[#「宇喜也嘉」に傍線]といふのと同じであつて、其にもい[#「もい」に傍線]がついて居るものと知れる。
思(オモヒ)は、かなし[#「かなし」に傍線]と同義語と言つてもよい程、「思ひ子」「思ひ君」など言ふ風に、特に寵愛を言ふ日本語である。此亦神の愛を受けるものなることを示す。女君の中、相当の高級にあつたうわもり[#「うわもり」に傍線](上森と宛て字する)――首里うわもりあんじ[#「首里うわもりあんじ」に傍線]・我謝うわもりあんじ[#「我謝うわもりあんじ」に傍線]・世高うわもりあんじ[#「世高うわもりあんじ」に傍線]・伊良部世高うわもりあんじ[#「伊良部世高うわもりあんじ」に傍線]のもり[#「もり」は太字]は、このもい[#「もい」に傍線](思)である。親雲上《ウヤクモイ》・のろくもい[#「のろくもい」に傍線]と男女並び言うたくもい[#「くもい」に傍線]のもい[#「もい」に傍線]も此で、「く」は別語であらう。「つかさくもいあんじ」のくもい[#「くもい」に傍線]のもい[#「もい」に傍線]も此らしい。「神のかなし人」「神の思ひ子」なる表現が、呪術的意味を持つてゐることは勿論である。古代日本語の習慣で言ふと「愛《カナ》しき何某」、もつと古い言ひ方だと、語根風になつたかなし[#「かなし」に傍線]を用ゐて「愛《カナ》し何某」と言ふ所だ。日本語琉球語の近接性から言へば、「何某かなし」は、さうした「かなし何某」の逆語序だと言つてよい。さうして旧語序によつて出来た語が、それ自身時代を経て、語序は語序のまゝに進んで行つた言語情調を経た訣である。かう言ふ相違が、同族どうしの間の分化状態を示すものなのである。
日本語では、おもひ[#「おもひ」に傍線]を接尾語風においては、理会が出来ない。「思ふ何某」「思ひ何」といふ。其が逆語序で、「何某思」といふ風に表現せられて、童名の「何々思」「何思加那志」となるのである。だから、此「思《モイ》」も逆語序である。

     三 按司

按司系の語については、語序の上の考へはまだ纏つてゐない。唯女性の按司は、按司といふ時は、かはりはないが、その対語のちやら(<かわら)をいふ時は、女《ヲナ》ちやらと称した。又、あや按司しられ[#「あや按司しられ」に傍線]とも言ふ。此場合は、按司部――諸侯に当る――の室である。あや[#「あや」に傍線]は君真物《キンマモン》出現の時、女按司部《ヲナチヤラベ》は、「綾の衣を著たから」と、女官御双紙にはあるが、危い説だ。あや[#「あや」に傍線]は国王の夫
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