聞襲大歴 ┐       はや┐           をの ┐
     ├いつのみたま・  ├さかる(り)むかひつ・   ├みこと
つきさかき┘       あま┘           ひめの┘
[#ここで字下げ終わり]

かうした神名が、単に偶然に関係なく現れたものとは言へない。必、相当に自由な語序の入り替りのあることが考へられる。
私は今まで、普通日本語の語序による言語排列を正語序とし、それに対照的な姿を見せる、其より古い排列を示すものを、逆語序と称へて来た。が、言ふまでもなく、此は常識を目安として言ふだけである。正逆と言ふ拠り所はないのである。強ひて言へば、われ/\の使つてゐる語に出て来て極めて多くの語に通じる語序を、正序と言つてゐるだけで、新を以て判断の標準とするのだが、古い形を正しいものとする今一つの常識からすれば、この正逆語序は、逆様に考へられても為方がない。この件の神名の変化は、長い年月日の間に起つたのではない。信仰上の記憶の実情として、割りに近い期間に、かうした語序変化は現れたものに違ひない。
正逆語序の事実について、今一つ注意せねばならぬことは、語序変化と言ふ様な、久しい時間をかけての事実は、その原因を明らかに示すことは出来まい。さうした観察の為になる、平凡な事実を今すこし書きつけておかう。

     十 荷前 かたみ

その年に出来た初刈り上げの荷、野からまづ搬び出した稲を神に示す地方農村古代の行事があつた。地方の旧国から、その誰にも触れさせてゐぬ荷を、宮廷に搬ぶことの意味において、のざき[#「のざき」に傍線]と言つたのである。此初荷を更に宮廷から、伊勢や、陵墓へ進められる使者をのざき[#「のざき」に傍線]使ひといふ。荷前と書いた字面の示すやうにまつさき[#「まつさき」は太字]の荷と言ふことである。久しい慣用の後、中世までも此語は使はれた。其様に、のざき[#「のざき」に傍線]は先荷の意味を見せた逆語序の語である。而もの[#「の」は太字]と言ふ形でさき[#「さき」に傍線]と熟した形を見ると、音韻変化がに[#「に」は太字]からの[#「の」は太字]に単純に行はれたのではない。もつと有機的な屈折があつたのである。其と今一つ、われ/\が機械的に考へてゐる、に[#「に」は太字]とさき[#「さき」は太字]との結合が、さき[#「さき」は太字]と荷[#「荷」は太字]との結合に飛躍したばかりでなく、もつと言語心理の複合形態の深さが窺はれるのである。
語の古さは、荷前より或は古いかとも思はれるが、その行はれた範囲が広く、生存期間も其より長かつたかたみ[#「かたみ」に傍線]と言ふ語――、平安期には相当の古語であつたにかゝはらず、まだ語の青春期の姿が見えるやうだつた。此は古くからの信仰、身の形《カタ》――身形の逆語序である。信仰する当体の身その物と信じるものを、自分の身にとりつけておくことによつて、その身についた霊魂を放さないでおくことが出来るものと考へた。此信仰が広がつて、旅行者自身の霊魂に、巫女・親近女の霊魂を併せ持つて行くことの出来るものと信じてゐた。さうした意味においての「身がはり」であり、身のかた[#「身のかた」は太字]である。が、代表的なものは、相手が身にとりつけてゐた衣服である。愛人の肌に近い著物を、我が身に著こめることである。この信仰が広がつて、衣服贈答の風が、我が国では、久しく保たれた。死後のかたみ[#「かたみ」に傍線]と言ふものは、広い意味の遺物・遺産である。これが、古代・中世から近代――若しくは現代に到るまで、内容の変化・信仰の深浅はあつても、語としては存続した。これが後代に現れた語でなく、前々代からの襲用であつたのだ。
また「互に」を意味し、「迭に」といふ宛て字の用ゐられてゐる「かたみに」と言ふ語も、此名詞の慣用の上に生じた、特殊な意義である。
かたみの衣[#「かたみの衣」に傍線]は互にとりかへて著るものだからである。身がはりとして衣を与へると、其に対して、相手の人から贈られる形式が、普通に行はれるやうになつた為である。
古代の文学的な表現では、「おのがきぬぎぬ……」とも言ふ。かたみ[#「かたみ」に傍線]とかたみ[#「かたみ」に傍線]とを交互にとりかはす行為を元として、相互に・交互にの意味を持つた「かたみに」と言ふ副詞が分化したのである。かたみ[#「かたみ」に傍線]と言ふ語は、近代に近づくほど、「死にがたみ」に傾くが、古代から中世へはむしろ、「生きがたみ」、或はもつと「身がはり」と訳した方が適切な用語例を持つてゐた。
「身のかた」「かたみ」といふ風に、正逆にふり替つたものと一往は言へるが、必しも意義の端々――論理や、言語表現の端々にまで、そつくり逆になつてゐると言ひきれないものがある。
意義の根柢になる表象は、「身」と「形《カタ》」とが聯関してゐるのだが、其がそつくり、ひつくり返つてゐるのではない。正語序の時代になつて、譬へば「みかた」「みのかた」と言ひかへる慣しが出来てゐたとしても、「したうづ」「したすだれ」のやうには、裏返しにはなつて居まい。抑、此場合は、逆序時代に出来た熟語を、正序時代の語意識に置いて考へることになると言ふ不自然がある。
さうした正逆いづれか一つに止ると言ふことは、結局正語序だけがあると言ふことになるので、かたみ[#「かたみ」に傍線]の如きは、時代の古いものなる為に、さうした判断をするわけである。
明らかに時代によつて、語序をふりかへてゐたものゝ中では、「とり見る」「みとる」などが、著しいものだらう。みる[#「みる」に傍線]は「世話をする」「ねんごろにとりあつかふ」など言ふ内容を持つてゐて、うしろみる[#「うしろみる」は太字](後見る)・たちみる[#「・たちみる」は太字](立ち見る)、中へ入つて世話をやく=仲裁すると言つた用語例の語=とる[#「とる」は太字]は「手づからする」「扱ふ」、さう謂つた意義に使はれることが多い。この「とる」と「みる」との二つの観念の間に加つて来、又|自《オノヅカ》ら生じるものがあつて、唯とる[#「とる」に傍線]・みる[#「みる」に傍線]との機械的な接合ではない。古くはとりみる[#「とりみる」に傍線]であつたのが、何時か、「みとる」に移つてゐる。「みとる」は看護すると言ふ風に飜訳せられてゐるが、直接にめんどうをみ[#「直接にめんどうをみ」に傍線]・世話する[#「世話する」に傍線]と言つた所から、介抱する・看護するといふ風になつて来たものなのだ。とりみる[#「とりみる」に傍線]もおなじであるが、母がとりみる・妻がとりみるなど言つて、看護よりも手づから、髪や、手や身など持つて、撫で育むやうな用例だから、今少し、個々の表現のしかたで、自由な意味に動いて行くことは考へられる。大体において、とりみる[#「とりみる」に傍線]・みとる[#「みとる」に傍線]には語序時期が示されてゐる。
其と共に、これなどは語序転換の根本条件なる、言語部族の変化と言ふことに関係は薄いかも知れぬ。語序の変化を経歴した語族の中で、単一な時代的変化が起つて来る。一部族の中に、語序変化の起るといふことの事実を見せてゐる例だとすることも出来よう。併しこれなどは、語序問題について注意を促すほど著しいものと思はれないだらう。とりみる[#「とりみる」に傍線]とみとる[#「みとる」に傍線]との間に、普通の人は、それほど感覚的な差異を感じないであらう。が、訣り易く言へば、万葉と新古今との用語ほどの相違はあるのである。少くとも、歌で言へば、古今集といふ溝渠を隔てゝ対ひあつてゐる語のやうな気がする。此はわかり易い比喩で、三つの歌集が、適切に事実を示してゐるのではない。

   第二部 日本語としての沖縄語

私のこの論述は、単に日本と沖縄との言語の親縁関係ばかりを説く為の計画から発足したものではなかつた。多くの学者によつて、いまだに明らかに認められてゐない、日本語における古い別殊の語序が、曾て存在した事が事実であり、その印象が、今日尚近代語的な感覚を持つ文章語の上に見られることを言ひ、さうした事実が、同族言語の中で、どの方面へ最有力に関聯性を著しく見せてゐるか、さうしたことが見たかつた。之を逆語序の事実の上において見ることが一等有効ではなからうかと思つた為である。
日本語との本末関係は固より、その後度々方言としてとり入れた為の複雑な混淆状態を経て来た沖縄語と、まづ比べて見たかつたのである。さうして、今までのところでは、親近関係の、想像してゐるほど明らかにせられてゐない南方諸語族との比較の為の準備をしておかうとしたのである。
琉球系統の言語では、語尾につく小《グワア》が、まづ人の注意を惹く。その中には、何子・何々子と言ふ風の愛称、日本語にも通常用ゐられ――殊に東北語に多い、あの愛称又は愛玩物を言ふ語尾の ko …… kkoo …… ko …… kko ……に当るものがある。其と共に「小なる」「小き物」と言ふ観念を表す小《グワア》が極めて多い。此は二つながら一つで、愛称のぐわあ[#「ぐわあ」に傍線]は心理的に言ふのであつて、小観念を表す方は、差等観を出してゐるのである。日本の人名・器用・動物などに接尾語のやうにつくこ[#「こ」に傍線]は、小観念が抽象的に心的なものを示すのであつて、対象物を比較において言ふのではない。畢竟、何よりも愛賞に堪へるものと言ふ極愛観[#「極愛観」は太字]から来るのである。時としては、比較を設定しておいて、大小を観じることも、唯一つに向けて愛を言ふことも、おなじであつたらう。其が自然に分れて来たものと言はねばならぬ。語序的に見れば、人名の語尾・器用の語尾などの「子」は、逆語序的な言ひ方と考へることも出来る。「こ何」と言ふ風に観じてもわかる。我々は今も、「小さい所の」「大きい方でない方の」と言つた理会の外に、愛称として感じることの出来る余地は、心に持つてゐるのである。

     一 「ぐわあ」と「がま」と

首里の巫女「大阿武志良礼《ウフアムシラレ》」は代々|久高《クタカ》氏の女性を出す、極めて古い為来《シキタ》りであつた。中古と伝へる時代に、一門にふさはしい人がなく、臨時に「大あむしられ」を見立てたが、一方旧慣を守つて、七歳の久高氏の女を「首里のろがま」と称へ、祭に当つて、「のろがま」を「大あむしられ」の先に立てた、と琉球国諸事由来記その他に伝へてゐる。小さかつた人を立てたのが恒例となつて、「のろがま」といつた訣である。小女神主と言ふやうな意味においていふのが、のろがま――「巫小」である。がま[#「がま」に傍線]は後代普通にぐわあ[#「ぐわあ」に傍線](小)となつた語である。
日琉共に、愛玩の意を持つた子・ぐわあ[#「ぐわあ」に傍線]がある場合には、「何子」「何ぐわあ」と言つた形で、正語序の「小何」「子何」に当る意義を示す。
琉球の方で言ふと、犬ぐわあ(犬小)が「小犬」であり、橋小《ハシグワア》が「小橋」であることを通例としてゐる。東北方言における「橋こ」「犬こ」である。我々は今「橋子」「犬子」といふ風に感じるが、小犬・小橋でもない替り、橋子・犬子でもなく、鍾愛の橋、可憐の犬なることを示す、心理的表現なのである。形は同じであつて、彼と是とでは、両方に別れてゐる。だが、沖縄では必しも、今も昔も、両方に渉つて用ゐられてゐる例が、ないとは言へない。寧ろ一つの偏向として、差等観を示す「何小」が次第に殖えて来たまでゞあらう。一つの心理を元としてゐるものなのだから、中間の観念が次第に自由になつて、両方に跨つて使はれるやうになつたものと思はれる。
併し何としても、形は純乎たる逆語序である。おなじ小観念を示すものに、小《グ》(<小《コ》)がある。鳥小堀・魚小堀など言ふ地名がある。首里の「とんぢよもい」、那覇東村の旧地「うをぐぶい」など発音する地が其だ。小は、く・ぐ(<こ・ご)であるから、ぐわあ[#「ぐわあ」に傍線]と音韻上関係がありさうに見えるが、此は、別の語である。其に語序も、濠・渠を意味す
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