人の称号から出て、貴族の妻の称へとなつたのである。此語などになると、語形の崩壊が多く加つてゐるから、合理的な説もいろ/\立つ。沖縄の古典語には、殊にさうした語原を交錯したやうな語が多い。
対語的の語といふより、同一語の変形かと思はれるほど通用したあんじ[#「あんじ」は太字]・かわら[#「かわら」は太字]・ちやら[#「ちやら」は太字]は、きつと代用語とでも言ふべきであらうか、あんじ[#「あんじ」は太字]は重く、かわら[#「かわら」は太字]は軽い――さうした時に、とり替へて使つたのであらう。かわら[#「かわら」に傍線]は頭目とか、酋長とか言ふべき語で、按司などの出来る前からのものであらう。又、玉とかわら[#「かわら」は太字]が対語になつてゐるから、玉の義から出て、玉を佩用する人――佩用を許された人――酋長・頭目とか言ふことになつたのであらう。其があんじ[#「あんじ」に傍線]が盛んに用ゐられる時代にも、地方領主の義の古語或は、馴れを感じる語として使つたのだらう。
加那志・按司についで言ふべきは、先にのべた君である。「君」は殊に女性に関係が深い。按司なども、女君が本来の意義であるかと考へてゐる程なのである。
離島の大女君の中、伊平屋の阿母加那志につぐものは、久米島の君南風《キミハエ》である。近代、きんばい[#「きんばい」に傍線]・ちんべい[#「ちんべい」に傍線]など言ふ。南風《ハエ》は、日本語の南又は南風を意味する。沖縄語は南が即はえ[#「はえ」は太字]なのだが、日本の用字になじんで、はえ[#「はえ」に傍線]に南風を当てたので、意は南方であり、君南風は南君《ハエキミ》である。南方諸離島の女君の代表的なものであり、八重山征伐の時も、先導として出向いてゐる。実際|南《ハエ》の君なのである。君南風が逆語序なることは、まづ問題はないだらう。
君といふ称へは、女君の首長「聞得大君」をはじめとして数多い中にも、正語序のもの、逆語序のもの、様々になつてゐる。
四 君々
女官御双紙には、きみとよみ[#「きみとよみ」に傍線](真字、君豊)の名をあげて、其位置にあつた尚豊王の妃以下三人の貴女をあげてゐる。きみとよみ・あんじ[#「きみとよみ・あんじ」に傍線]の外にも類例はあつて、きみつしあんじ[#「きみつしあんじ」に傍線](君辻按司)といふのがあつたことも記されてゐる。
別に、君嘉那志按司一員が出てゐる。敬称ばかりのやうだが、極めて素朴な神名から転じたらしい感情を持つたものだ。嘉那志按司君など言ふ風に、必しも正逆を論じなくとも、適切感が浮んで来る。かう言ふところに正逆の別れる以前の気味合ひが窺はれるのだらう。
今一つ、此は更つた気持ちのするものだが、君清良大按司志良礼《キミキヨラオホアンジシラレ》(尚氏北谷王子朝里女、尚氏具志頭按司朝受室)は、記録上の一員の名をあげたもの。「きよらぎみ……」と正語序には行つてゐない。この女君名は、如何にも拝所その他に斎く神名にもありさうな古風なもので、神号としても古いものだらう。言はゞおもろ[#「おもろ」に傍線]風の名である。
弓張月を読んだ人は、皆「君真物《キンマモノ》」といふ霊物を、異様な妖怪のやうに感じた記憶をお持ちだらうが、沖縄では極めて神聖な君であつた。王宮附近に託遊する神で、神々の中、最霊威のあるものと見たのである。だが、首里にのみ現れるのでなく、所々に出たやうである。八重山攻めの際も、「彼島の君真物現れ、君南風を迎へる」と伝へてゐる。
おもろ双紙[#「おもろ双紙」に傍線]尚真を讃美したおもろ[#「おもろ」に傍線]にも「せだかさのまもの」とある。せだかさは、稜威高《セヂタカ》き所の真物といふ事で、真物は其神格を褒めたのだ。君真物は、即真物君で、人間には神とも女君とも判断の出来ぬ霊力を持つて現れるもので、真実は、巫女の託遊するものである。「首里見物君」「平良見物君」とある女君の名が、逆序で行けば、君見物である。此為の註釈には役立つ。沖縄の神の出現は女君によつてするものが、その中女君の身に託して、男神も多く現れるのである。君の縁で言ふのだが、正語序のやうに見えるもので、世治新君《セヂアラキミ》按司といふ女君の名がある。おもろ双紙にも、王を褒めて「せちあらとみ」といふ語の見えることは、先に触れておいた。せぢ[#「せぢ」に傍線]は日本で言ふ稜威《イツ》である。あら[#「あら」に傍線]は新の字を宛てるが、出現の意に使つた類例が多い。「せちあらきみ」は神威著しき女君といふことらしい。扨今一つのとみ[#「とみ」に傍線]は、とよみ[#「とよみ」に傍線]といふ語の熟語馴化である。宮廷に仕へてゐた勢頭《シヅウ》九員(諸事由来記)皆、勢遣富・世高富・謝国富・島内富・押明富・勢治荒富・相応富・世持富といふ風に富の字を以て意を示してゐる中、一員だけが「浮豊見」と書いてゐる。既に勢治荒富[#「勢治荒富」に傍線]が出て来てゐるので見ても、関係は思はれるが、名だゝる人、評判高い人、響きわたつた人といふ位の意で、勢頭役は、さうした人が勤めたのだらう。本部親雲上《モトブオヤクモイ》政恒からはじまつた役だといふ。おもろ[#「おもろ」に傍線]詞には、「とよむせたかこが……」など言ふ。「名だゝる稜威激しき人が」の意である。正語序らしくて、「とよむ何々」といふのがあり、宮古攻めの時の功臣「仲宗根豊身親《ナカソネトヨミオヤ》」などがある一方、女官名には先にあげた君豊(きみとよみ)があり、その記録せられた三員の名を書いてゐる。とよみ君といふ事で、名だゝる女君の褒め名だ。勢頭の「豊見《トヨミ》」「富《トミ》」も其々「とよみ勢遣」「とよみ世持」などいふ風に解いてよいのだらう。
第四にあげたいのは、敬称・尊称よりも讃称《ホメナ》とか、媚び名とか言ふべきもの。その一つ、しられ[#「しられ」に傍線]をあげる。褒め名としての、とよむ[#「とよむ」に傍線]・しられ[#「しられ」に傍線]については、柳田先生大正十年琉球渡島後、屡《しばしば》話してゐられるが、こゝには、其説を語序の側へ持ちこんだゞけである。
しられ[#「しられ」に傍線]は「知らぬ者もなき」「著しい人」「顔のひろい人」などいふことであらうが、此は逆語序と思はれるものゝ方が普通である。之と対をなすものは、きこえ[#「きこえ」に傍線]である。「きこえ渡つてゐる」「名に響く」「よい名の伝つてゐる」いろ/\に説けるが、おもろ[#「おもろ」に傍線]には国王にも言うた痕がある。女君名として、常に用ゐてゐるのは、女君最上位の「聞得大君」である。王の場合は「きこえ・せたかこが……」がある。しられ[#「しられ」に傍線]は逆語序に多く、きこえ[#「きこえ」に傍線]は正語序に多い。
王の母・夫人又は王子・按司・親方の室に、この称号はあつたらしくて、「大按司しられ」として録された女官の名が残つてゐる。
次には、「阿護武志良礼《アゴムシラレ》」として、王の嬪の称が伝つてゐる。
大阿母志良礼は首里|三平等《ヒミラ》の大巫や、王の乳母の称号となつてゐた。美御前《ミオマヘ》の大あむしられ[#「美御前《ミオマヘ》の大あむしられ」に傍線]と言ふのが、乳母である。宮中の女官にあむしられ[#「あむしられ」に傍線]の称を伝へるものが多い。
大庫裡のあむしられ(三員)・真南風《マハエ》のあむしられ(二員)・作事のあむしられ(三員)・よたのあむしられ(二員)・よちよくいのあむしられ(三員)等があり、外にも、しられ[#「しられ」に傍線]を語尾に持つた称号の女性は多いが、省くことにする。又、しられ[#「しられ」に傍線]を訛つた発音|志多礼《シダレ》で録してゐる名も多い。
これは皆、「しられ何某」といふことで、「名だゝる神」「名だゝる人」なることを表したのだ。
かう言ふ風に琉球語の古典的なものと、日本語とをつき合せれば、一とほり対訳の上で訣る語群である。だが此等の語彙は、必しも皆琉球の古語といへるか。私は別にさう言ふことを問題にしてゐるのでないが、中世の、併しさのみ古くない時代を、此等の古典語が示して居る。
古い語序を以てするものゝ中に、新しくとり容れた倭語を咀嚼した新語の、敬語的表情ではないか。民族分離以前に持つたものゝ上に、更に幾度か標準語として這入つた倭語には、時々の特徴があつた。少くとも奈良以前のさうした形をも明らかに見ることも出来る。今述べて来たものは、其等の中の新しい一つの著しいものなのである。奈良以前と言へども、単純な孤立した語を以て言ふことは出来ない。語序が古くとも、其言語が古いとは言へない。其やうに、語彙が古くとも、其語の伝来を信じることが出来るものではない。
うごなあり[#「うごなあり」に傍線]といふ語が、「混効験集」にあつて、此だけが他の中世的な日本語をひき放して古ぶるとして見えてゐる。
伊波普猷氏は、先島の方に、なほ此語は生きてゐると言はれたが、先島語法の中に、ぽつんとして融けこまないで残つた様子を想像すると、さうした伝来を説く採集者の採集に、何かの誤りがあつたと考へないでをられぬ気が起る。殊に、外の日琉相関を示す古語にも沖縄側の方は、仮りに日本古語を標準に立てゝ見る時、幾分何か言語のだれ(緩慢性)を見せてゐるやうだが、うごなあり[#「うごなあり」に傍線]ほど甚しい物も珍しい。うごなはる――連体形が著しく残つた――の場合の、琉球残存形は、残存かどうかが疑はしくなるほどだ。何か、偶然な誤解が、沖縄の祝詞なるおもろ[#「おもろ」に傍線]・おたかべ[#「おたかべ」に傍線]の辞句理会の上に加つて、日本の祝詞語と結びついたものではないか。
かなし[#「かなし」に傍線]はまだよいとしても、きこえ[#「きこえ」に傍線]・とよみ[#「とよみ」に傍線]・しられ[#「しられ」に傍線]などの位置や、意義は日本的であつて、而も日本語的でない所を容易に観取することが出来る。つまり沖縄独自に発育した傾向をまじへてゐるのだ。唯、「君」は其等の中でも、古風であり、日本的に、非常に親近感を持たせる形態である。かう言ふ敬称の語には、逆語序にも正語序にも、かうしたものも亦、相応にあつたのだらう。其が又更に、琉球自身において、其を土台とした敬称の飛躍が行はれ、日本的にも理会出来るが、方言上に新しい方法が開けて来たものと思はれる。敬称の言語態様は、中世末の琉球で大きい飛躍をしてゐるやうだし、沖縄の歴史も、其頃明確度を増して来てゐる。敬称の問題は、此時期前後に属するものが多い。日本で言へば、鎌倉室町時代の後先のことである。
何としても、その前に漠たる古代が、沖縄の語の上にあつて、形容詞や副詞の上に、日本母語との間にひらきを作つて来てゐる。私どもはこの語法の相違を見ると、此は容易な短い時間の為事でないと思ふ。
元非常に近似してゐた形容詞・副詞の各条件が、日琉双方で、大きな分袂を遂げたのと、語序の問題とは、相関聯させながら考へて行く必要があるだらう。唯、品詞の分化よりも、語序の方は恐らくもつと時代をかけて来てゐるであらう。日琉共に、次第に語序を改めて行つた姿は明確につかまれないけれども、確かに双方に共通する幾つかの状態があるに違ひない。其を見る為には、此まで挙げて来た様な、逆語序に属する幾多の個々の単語を積み重ねて行く外はなからう。さう言ふ為事を、南方諸島の上にもひろげて行かねばならぬ。さうして、既にある部分まで整理せられて来た南方支那・南洋の語序研究に投合して行く日が来る。私は語序の一致を以て、語族圏を描かうとするのではない。が、我々がある点はまだ空想に残してゐる神話民族圏と、相当に一致するものがありさうなのである。
唯その中沖縄諸島ばかりは、語序の一致よりも、先に語族としての一致が言はれて居り、更にもつとひろく、民族の親近性が認められて来てゐるのである。
私が語序論を書くに到つた悲しみは、永劫に贖はれないものであらうか。
底本:「折口信夫全集 12」中央公論社
1996(平成8)年3月25日初版発行
初出:「民族学研究 第十五巻第二号」
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