り[#「もがり」に傍線]と言ふと共に、かりもがり[#「かりもがり」に傍線]とも言つて、両方共、別に異同のある訣ではない。思ふにもがり[#「もがり」に傍線]は元々、一時の行為で、結局喪葬の手順の一つを考へてゐたやうだ。だから、かりもがり[#「かりもがり」に傍線]と称へて、恰も仮りに行ふ喪葬といふ風な感覚を抱いたことを示してゐる。だが、もがり[#「もがり」に傍線]自体が、仮りの方式だから、仮りに行ふことゝ言ふ意識が重つてゐる訣になるのである。所々の氏民に存続してゐる方言のもがり[#「もがり」に傍線]と言ふのは、既に昔の殯斂ではない。埋葬した新墓に立てる割り竹の類を言ふやうになつてゐる。葬式の先頭に振つて行く竹の髯を垂れた花籠の、新墓の上に立てられてゐるのを見かける――あれが、墓土の中に埋められて、髯の一部が外に出てゐる形なのである。其が窮極の目的を示してゐるらしい名称となつてゐるのは、「目はじき」と言ふ語である。掘り起して屍を喰ふ野獣を追ふと言ふやうな用途を其に持たして考へてゐるのだ。此が古い方言らしい呼び方では、右のもがり[#「もがり」に傍線]と言ふ地方のある外に、逆茂木《サカモギ》・虎落《モガリ》など言ふ、戦場・城塞などの防衛の障碍物の名として伝へられてゐたことが思ひ起される。近代になつても尚、乾し物竹の類の枝の多くついてゐて、長い布などの掛けられるやうになつたのを、紺屋などが使つてもがり[#「もがり」に傍線]と言ひ、其聯想から、口実を設けて、言ひがゝりし、絡んでかゝる詐偽者・喧嘩売り・美人局《ツヽモタセ》の類の無頼漢を言ふことになつてゐた。
古代の仮葬場《モガリ》(殯所)に設けた障碍物が、直にもがり[#「もがり」に傍線]と言はれるやうになり、更に転義を経たものであらう。此等語義の中、古いものなる「仮り喪」の儀式まで溯つて考へる事は許されてよい。喪葬の最初の形で、次で行はれる儀礼を予想してゐるものとしての名、仮喪なる称呼を以てすべきところを、古い逆語序の形を以て言つてゐたのである。殯に続いて、真葬のあつたことは、そのまゝ正当にうけついだとは言へぬまでも、今日尚日本民俗の上に痕跡の歴然としてゐる両墓制は、二つ或は二つ以上の喪葬行事を経なければ、完全な喪事を営んだといふ満足感の起らなかつた古代の民俗印象を、ある点まで伝へてゐるものと言うてよい。
さうした喪葬の行事の重複から、仮葬と言つた気味あひを表現したがる傾向が現れて、もがり[#「もがり」に傍線]と言つた上に、更にかりもがり[#「かりもがり」に傍線]と言ふ「重言」のやうな表現が出来たのであつた。
殯斂の式だつて、様式の相当に違ふ所から、必しも漢土の喪葬を学んだのではなく、わが民俗にも固有してゐたものと言へるが、其も亦、古代日本全体に渉つて行はれたとも断言は出来ない。之を行はない地方や、部種族のあつたことは、痕跡を認めることも出来る。沖縄地方全体に、風葬・洗骨の風が認められるが、此とても、どの時代にも、どの地方にも通じてあつた葬風であるとは言へない。沖縄より北の日本人全体には、近年まで、同じ風の存在したことは、承認せられてゐなかつたが、今日では、曝骨・洗骨と近接した民俗の痕跡は、次第にその姿をあらはにして来てゐる。

     五 赤裸

今一人の逆語序論者金沢庄三郎先生は、裸(はだか)は赤肌(あかはだ)と言ふ旧来の説によつて、語序の逆になつたものとしてゐられた。
唯、殯と言ひ、此と言ひ、語原観から推して、之を証明しようとするのは、結局一つの学説の上に立つて、更に今一つの学説を立てることになるのである。語原説が完成しなければ、学説として確かなものには見なされない。
もがり[#「もがり」に傍線]説よりも、肌赤説の方が、直観的に真実らしい気はする。この場合にも、赤裸(アカハダカ)と言ふやうな形で、古い印象を呼び返さうとする、重言のやうな現象が出て来るのは、注意すべきことである。語序転換には、重言過程を経てゐるとも言へるし、日本における重言の成立には、語序の変化が原因となつてゐる点があると見ねばならぬ。
私は、日本の国の文献の辿ることの出来る限りの最古の時代に溯る前に、まづ、平安朝式の語感を持つた語を検査した。今はまう少し進んで、日本語として最古い時期の古語においては、どんな姿をとつてゐたかを見ようと思ふ。

     六 「さね」と言ふ語及びぬし[#「ぬし」に傍線]

神主・神実といふ語は一括して説いてよい。むざね[#「むざね」に傍線]と言ふのは、語原的には身実《ムサネ》・身真《ムサネ》など宛てゝよい語で、心《シン》になつてゐるからだ・からだの心《シン》などと訳してよいだらう。正身《シヤウミ》・本体など言へば、近代的にもわかる。神実《カムザネ》・神主など言ふ語も、神の中心的な存在・生きてゐる神の精髄、神主は主神《シユジン》といふことになる。神主をさすことの多くて、之を神髄なる神といふ風に解してもよい訣だ。即、祭られるべき神髄になるものを持つてゐるものを意味する語である。たとへば実身(サネミ)といふ風に逆に言つても、身の心《シン》と言ふのと同じである。神主も又神人の主体又は神々の主《ヌシ》といふことになつてゐるから並べて考へてよい訣だ。漠たる表象に、偏向あらせられる所から、意義も固定するので、中には浮動したまゝと謂ふやうなものがある。表象を追求する心が、半ば以上言語発想当初の意想よりも発育したものにする。
心《シン》になるものを考へる。其が、神自体であつても、神以外のものであつても、さうした点に、深い顧慮のない所から出発して、その語の宿命的な意義が定まる。だから、「神ざね」は神であるか、神主であるか、どちらにも考へ得る所があり、神道が儀礼化すると共に、人神信仰が強くなると、神実即神主の方に重くなる。而も、正確にはやはり動揺してゐるといふ外はない。
身のさね[#「身のさね」に傍線]と言つても、実《サネ》なる身と言つても、固定以前にはどちらでも理会出来る筈であつた。其が語形がきまると、却つて一方の外は訣らなくなつてしまつたものであらう。むざね[#「むざね」に傍線]でなくてはならないことになつたらしい。むざね[#「むざね」に傍線]と言ふ古語が、現存の文献には見られなくなる頃、――或は、唯多く行はれなくなつたゞけで、地方的にはあつたかも知れぬが、之に代り、又それから幾分意義が踏み出したと見える語に、さうじみ[#「さうじみ」に傍線]がある。正身(シヤウジン)といふ漢語を国語化してしやうじみ[#「しやうじみ」に傍線]と言つたのである。其が音韻変化してさうじみ[#「さうじみ」に傍線]と言はれるやうになつて、如何にも国語らしい情調を持つて来た。当然むざね[#「むざね」に傍線]と交替するのに適当な機会があつて、漸くふり替つたものと見てよい。国語化しようとする努力の著しく現れた語である。正身は意義から言へばむざね[#「むざね」に傍線]であり、語を解体すれば、さねみ[#「さねみ」に傍線]である。必しも、さうして分解的に語は造られてはゐないのだが、語の成立に、さう言ふ意識を含んでゐるのは事実だ。精神から見れば、ある時期が、語序をとり替へさせる力になつてゐると言へる。語序交替期は、若しあつたと言へるにしても、遥かに古い時代の事であつて、其は現実としては考へられないやうなもので、空想と同じである。が、さうした努力は、相当長期に渉つて続けられてゐたので、唯何となく、語原的にはふり替るやうに感じてゐるだけで、必しも順から逆へ逆から順へとも言ふ意識なく、唯今までの形と、変化さへ行はれゝばよいと言ふやうな精神誘導力の為に、何となくかはり/\して来たものと思うてよいのだらう。恐らく徐々として、全体に及んだ筈の語序変化の余勢が、遅れて尚行はれてゐるものもあり、又逆に再、正序から逆序へ戻つたものもあらうし、――どちらが逆だといふことはない訣だが、後世の日本語では、基準として姑く、さう称へてゆく外なからう。正語序に置かれたものゝ方が、殆絶対に多いのであるから――其と同じ語序が可なり遅くまでくり返されてゐて、むざね[#「むざね」に傍線]・さうじみ[#「さうじみ」に傍線]の様な、後世的特徴を持つた国語的性質を、新入漢語の上に表して来たものもあつた訣だ。だから中には勿論、語序変化にとり残されたものもあるので、中世国語がその散列相を示してゐる訣である。そのとり残された姿が、新しい変化の及びにくい固有名詞の上に見られる事の多いのは、当然である。而も其間に、其以外のものにも残つてゐるものゝ見つけられる、今までの例のやうなものも、時としては、語序が逆になつてゐても、其は当然あるべき普通のことのやうに思つて来たことであつた。

     七 人名について

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新羅媛善妙《シラギヒメゼンメウ》
百済媛妙光

中臣[#(ノ)]金[#(ノ)]連
中臣[#(ノ)]鎌子[#(ノ)]連(又、中臣[#(ノ)]鎌足[#(ノ)]連)

蘇我[#(ノ)]稲目[#(ノ)]宿禰
蘇我[#(ノ)]馬子[#(ノ)]宿禰
蘇我[#(ノ)]蝦夷[#(ノ)]宿禰
蘇我[#(ノ)]赤兄[#(ノ)]臣
蘇我[#(ノ)]倉麻呂[#(ノ)]臣

物部[#(ノ)]目[#(ノ)]連
物部[#(ノ)]尾輿[#(ノ)]大連
物部[#(ノ)]弓削[#(ノ)]守屋[#(ノ)]大連

大伴[#(ノ)]談《カタリ》[#(ノ)]連
大伴[#(ノ)]金村《カナムラ》[#(ノ)]大連
大伴[#(ノ)]長徳[#(ノ)]連
[#ここで字下げ終わり]

この日本紀の人名排列は、一見正逆の語序をまじへたものゝ様に見え、又自然な並べ方のやうにも見られるだらう。
たとへば、「百済[#(ノ)]池《イケ》津[#(ノ)]媛」など言ふのを順当と解すれば、媛といふ称号は、唯の敬称のやうに、近代の感じ方では思はれるだらう。併し古代宮廷の慣例によれば、夫人・媛は、三韓の貴族の女性の官或は族姓を示す称呼である。「狛夫人某と、新羅百済の媛善妙・妙光其他を度《ド》した」(崇峻三年紀)とあるのは、新しく彼地から来た人々で、菩提寺で得度せしめたものゝことを言ふのである。新羅媛・百済媛はその族姓を示し、善妙・妙光は名を言ふものと見られる。雄略二年紀には、媛を後にしてゐる。此はやはり同様に見るべきもので、百済媛池津とあるに等しく考へてよい。中臣氏の金《カネ》・鎌足等に、連姓のつく様子は、日本紀記録――或は日本紀資料記述時代に、既に姓の下に廻る風の現れてゐたことを示すものであらうが、一方又、姓が敬称としての感覚を表す様になつて来たことを見せてゐるらしいのである。他の家々の宿禰・臣・連などの位置が、同じ時代に上にも下にも置かれるが、概して下になる傾向が出てゐる所に、新古の感覚の相違が出てゐる。後になるほど、真人や朝臣が姓と言ふより敬称として用ゐられた。某位以上を朝臣と敬称すると言ふやうな風は、かう言ふ傾向から誘はれてゐるのであらう。
元来、敬称を示すことを目的とするものではなかつた姓が、氏名から放されて、人名の下につくやうになる。此は単なる語序変化に過ぎない。ところがさうなると、人名に対して、姓が個的な関係を深めて感じさせる。
かうして、姓と氏と名との位置の動いて行くのは、社会感覚の変化によるやうに見えるが、根柢の理由は、語序変化にある。さうした語序と敬語感覚との交錯交替する様子が思はれるのである。
傍丘の如きは、半固有名詞と言ふ事も出来るもので、日常常用物の表現例として、下簾・韈・梯立のやうに残つたものと、一様に見てよからう。

旧語序によつて、表現せられてゐた時代――或はさう言ふことが、旧語序を持つ言語族に偏して甚一方的な言ひ方であるかも知れぬ。――は、相当に古い過去で、我々が想像する古代とは、状態が違ふやうである。さうした語序の語が、普通に使はれてゐた状態は、古代文献によつて印象せられてゐるばかりで、我々の想像を超越したものと思はねばならぬ。その後の文献には窺はれないほど、連絡のきれたと思はれる姿があるや
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