日琉語族論
折口信夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)姑《しばら》く
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|自《オノヅカ》ら
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]
[#…]:返り点
(例)積《ツミテ》[#レ]俵[#(ヲ)]
[#(…)]:訓点送り仮名
(例)俵[#(ヲ)]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)かはり/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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完全な比較研究が、姑《しばら》く望まれない。単に類似点を、日琉語族の間につきとめて行くと言ふ程度のものにとゞまるであらう。唯さう言ふ簡単な為事も、人文地理上の変革から、問題にせられなくなる時が来ないとも限らぬと思ふ。その不安から、この小論文は纏めておく気になつたのである。日琉同祖観による長いよしみの記念ともなれ、と思ふ記録に過ぎない。
日本語・沖縄語は、今日では、疑ひもない同系の語だと定つてゐる。だが仔細に観察すると、その両方の語の含んでゐる古格の言語表情が、可なり複雑な姿を見せてゐて、さう言ふところに、尋常一様ではいかぬ文法上の問題があるのではないかと言ふ気持ちの、時々の偶感には、起つて来るものがある。其と共に、尚一層熟考してゐる中に、両者の間の相違点と思はれたものが、存外却てこの二つの語族のきり放されぬ関繋にあることを示してゐる、さういふ事に心づく。――かう言ふ経験が、私には屡※[#二の字点、1−2−22]あつた。かう言ふ点も、私だけに限つた感情か、其とも、誰の上にも起つて来る普遍質を持つたものか、さう言ふことを考へて見ようと思ふのである。
私の之に続けて書かうとする第一部は、私個人にとつては、久しい懸案で、殆ど書かないまゝで四十年に近い年月を経た。その間に、進んだ学者は既に、幾分その成迹の報告をしてゐられる。大正初年の「東亜の光」に出された、坪井九馬三博士の論文は、その有力なものであつたと記憶する。私の此から引用する若干の例の中、既にその論文に出てゐるのもあるほどで、私としては自由に考へて来たことながら、どんな点かで、そのおかげと影響とを受けてゐるかも知れぬのである。
第一部 日本語の語序
一 下何
後代の語序からすれば、「簾下」「沓下」と言ふ所を、古くは、下簾「シタスダレ」、韈「シタウヅ」と、全く逆装法を以つて言つてゐる。かう言ふ考へから出発して行かう。
簾或は他の器用の下に、更にかけられてゐる簾を言ふからの名の下簾ならば、問題はない。又、靴《クワ》の沓《クツ》の下に今一重別にはいてゐるので、下沓《シタグツ》と言ふのだとすれば、此も亦あたりまへである。ところが、下簾・韈は、さう言ふものではなかつた。
車の正面にかけた簾の下に垂れる布類の名が下簾であり、沓の下にはく足袋のやうな類をしたうづ[#「したうづ」は太字](したぐつ)と言つたのである。この二例とも、平安時代の言語の気分の多い語なのだが、其前にも既に言つてゐたのではないか。したぐつ[#「したぐつ」に傍線]の方は、万葉巻十六にも、「二綾《フタアヤ》下沓」と言ふ語が出てゐる。沓下として穿ちはいた二重紋綾の足袋《アシブクロ》なのである。
「……をちかたのふた綾下沓、とぶとりの飛鳥壮夫《アスカヲトコ》が霖禁《アマツヽミ》(普通ながめいみ[#「ながめいみ」は太字]と訓む)縫ひし黒沓」と言ふ続き合ひを見ると、右の沓下と、それからその上に、飛鳥郷人の霖雨期間に謹慎をして縫ひあげた黒沓をはいてゐると言つた姿で、沓と韈の著用次第もよくわかるし、語の時代は又溯つて藤原奈良時代或は其より古いものと言ふことは出来るらしい。勿論、語の意義も、そのまゝ持続してゐた様子が見える。さうすると、万葉集における語の位置排列が、二通りあつたといふことになる。
通常の語序をとつた文章では、先行する筈の語の、反対に後置せられてゐると言つてよい形の熟語が、飛鳥時代にあつたことの想像せられる程、其に続く長い時代に渉つて生きて居り、或はもつと後世までも、固定して熟語として残つたことも考へられるのである。而も其事実は、当然かういふ事情の内に行はれてゐたのである。日本語の普通語序にあるものとして用ゐられた極めて多くの熟語に介在して、すつかり語序の違つた、謂はゞ逆になつた語のあることである。さうして、今日残つた古い文献の綜合せられ考へられて来た我々の知識では、どちらか一方の語序を以てする表現ばかりの行はれてゐた時代が空想せられ易い。勿論文献の上では出来るだけ古代に溯つて見ても、普通語序の熟語が極めて多く、その逆様式のものは極《ごく》稀なと言ふよりも遥かに少い。さう言ふ語が鏤められたやうにまじつてゐるのが、事実である。決して逆語序の語ばかりの行はれた時代は勿論、其が非常に勢力のあつた時期の姿と言ふのをすら、見ることが出来るのではないのである。
其かと言つて、日本語成立の一つの方向から出て来る、当然の二分派とは考へられない。恐らく別々の系統から出た二様の様式が、日本語の上に、長く痕を引いて残つたものと見るのが、一番無理のない考へ方なのであらう。所謂逆語序の方が優勢を持つた時代は、書史の現実には見ることが出来ないのだが、だからと言つて、其が全然空想だとは言へない――理論的確実性を持つてゐるのである。
「したぐつ」の方は、右様の溯原を試みることが出来るが、下簾の方は、遅くはじまつたものか、今日存する文献・古典類に留りにくい事実があつて、早い姿を見せなかつたものか、ともかく、平安時代より、古いものは見出すことが出来ぬ。併し此と同類の様式のものは、当然臨時にも出来る訣なのだから、「した××」と言ふ形の熟語のあつたらうといふことは、言つてさし支へのないことである。
二 片何
必しも万葉に偏寄つて、同種の例を求めねばならぬと言ふ理由もないが、語に、円満な理会の得易い、親しみがあるから、之を採る訣である。万葉にもあり、他にも相当に多く現れて来る語に「片岡」といふ地形・地理に関した語がある。地名である理由から、古語でありながら、今も生きて使つてゐる地方が相当にある。語原意識を明らかに見せた傍岡・傍丘など言ふ記載例もある。
「をか」と言ふ地形の印象の強い所から、岡を中心としての地形を思ひ浮べる習慣が我々の間には出来てゐる。「岡の傍の山」と言つた風に、片岡山など言ふ地名にして、地理観念の調節を行うた地方もある。
「かた山」と言ふのも、同型の語である。傍岡・傍山は岡の傍の一地・山の傍の一地で、その山・岡の傍なる地が直に山や岡であることは要せぬのであるが、普通変化のない地の状況から、岡・山の傍にあるそれ/″\の地までも、岡・山と考へくるむ癖があつたのである。
皇陵の散列してゐる大和北葛城郡の傍丘は、狭いけれども、極めて長い地勢である。南北三里に渉る丘[#「丘」に白丸傍点]の傍[#「傍」に白丸傍点]の平地[#「平地」に白丸傍点]で、逆語序に言つた習慣に固定したかたをか[#「かたをか」は太字]の地で、如何にも「丘傍《ヲカガタ》」と言ひ替へてもよい気のする地である。ところが、後漸く語感の変化に誘はれて傍の丘又は、里の傍の丘と言ふのに近く、聯想の移動して行つて、久しく固定したまゝに用ゐられた地である。
傍丘の名のついた其丘は、近代「馬見山《マミヤマ》」と称へる丘陵で、北は法隆寺の南方の岡崎と言ふ地から起り、その丘陵地帯が西から南へ廻り、東に向つた所に又、岡崎と言ふ地があつて、そこで岡はきれてゐる。この岡崎から岡崎に渉る丘陵を「丘」と言ふやうになつたので、元はその「丘」のほとりの平地帯が、傍丘であつたのである。この傍丘地方にある丘故、遂に丘を傍丘といふ風に考へ、片岡山と言ふ名で、その丘を呼ぶのが、古くから岡の方に移つた地名なのである。
片岡は分布の多い地名で、山城にも、名高い二つの片岡がある。万葉には、何処の丘陵地帯を言つたのかわからないが、「片岡のこの向つ尾に椎まかば……」(巻七)と言ふのがある。「傍丘山即この向ひの丘《ヲ》なる傍丘山」と言ふ風に解するやうだが、こゝも亦、「岡の傍の村(平坦地)の向ひの岡」と言ふことで、岡から起つた地名の、其地の前に立つ岡をさすのである。
三 竪橋との関係
次に誰でも承認しさうな例は、はしだて[#「はしだて」は太字]である。天梯立など言ふと、今も、我々の中に生きた語序として歴然として残つてゐるのだが、おなじ古廃語らしい感じにある「かけはし」(桟)「いははし」「つぎはし」などとは、全く別の素質を持つてゐることが考へられる。普通、橋が横(水平)か、勾配を作つてか懸けられてゐるのに対して、竪《タテ》(垂直)に上屋や屋上や、又軒先から上の空にかけられることがあり、時としては信仰の上から――その場合が却つて多いのだらうが、屋上の虚空を横ぎつてある地点に渡されてゐるものと考へた――さう言ふ橋に到るまでも、(まだ間木《ハシ》と言つた語原観を意識しながら)はしだて[#「はしだて」に傍線]と言つてゐた。我々はやゝ遅れて、梯《ハシ》の子《コ》・はしご[#「はしご」に傍線]と言ふ愛称を加へた語ととり替へるやうになつた。かう言ふはし[#「はし」に傍線]の両語序に渉つて聞える様に出来てゐるのが、くらはし[#「くらはし」に傍線](倉梯)である。空想上の天の梯を、さう頻繁に考へなくなつた頃に、倉梯立と言ふやうな語原意識を持つたまゝで固定させ簡略にしたものであらう。「神の秀倉《ホクラ》も、梯立のまゝに」(垂仁紀)とあるはしだて[#「はしだて」に傍線]は、倉の上屋階《アチツク》に鎮安する神霊に奉仕する為のはし(梯)であつたのだ。
昭和年代に入つても、沖縄本島でまだ見かけた梯子の古風なものは、太い一本の柱に、足がゝりとなるやうに、鉈でゑぐつて間隔をつけた、一本梯子といふべきものであつた。之を何処にでも立てかければ、極簡易に梯子の用をするやうになつてゐた。はしだて[#「はしだて」に傍線]など呼んでゐた時期は、此種のものを用ゐたのだらう。水平にかける橋のやうに、両端を物にもたせかける要がないのである。
播磨風土記揖保郡の「御橋の山は、大汝命の造つたもので、積《ツミテ》[#レ]俵[#(ヲ)]立[#(ツ)][#レ]橋[#(ヲ)]、山、石橋に似る」とある。竪橋として空に向けて竪てたことを考へてゐる。同じ印南郡の「八十橋」が、天に届いてゐた時分、八十人《ヤソヒト》の上り下りした石橋と言ふ伝説と通じる所がある。此も一本梯子を考へてゐるものと見られる。
梯立が逆語序のものであらうと言ふことは、坪井博士も述べてゐられた筈である。
四 殯(もがり)
今まであげた熟語は、私の考へを裏切る筈はないと思ふが、相当に疑はしいものもある。
殯宮・殯斂の殯の字は、もがり[#「もがり」に傍線]或はあらき[#「あらき」に傍線]と訓むことは誤りでないらしい。今日でも、大体語原ははつきりしない。ほなしのあがり[#「ほなしのあがり」は太字]の、火無殯斂を意味するらしい所から、あがり[#「あがり」に傍線]が神あがりなどのあがり[#「あがり」に傍線]と同じであり、もがり[#「もがり」に傍線]は、喪あがり[#「あがり」に傍線]だといふ風に説いて来たが、この説自体やゝ矛盾があり、ほなしのあ[#「あ」は太字]がり[#「ほなしのあ[#「あ」は太字]がり」に傍線]の古語も、ほなしのも[#「も」は太字]がり[#「ほなしのも[#「も」は太字]がり」に傍線]の誤記でないとは言へない。もがり[#「もがり」に傍線]は元、本式に喪葬することでない。ある時期の間、いまだ離れない霊を持つたまゝの屍を、別所に据ゑて置く儀礼である。まだ生人の待遇を捨てないのだから、宮廷では、「大行天皇」と、古くは称してゐた。屍を呼ぶ名であり、霊魂を名ざしての称へである。
もが
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