人を哀しませる部分だけは書きとめて居る。唯違ふのは、伊予の国に流されたのを、女王だとする伝へを書いた点である。ところで、此貴い女性が恋慕に堪へず、兄みこの後を慕うて遠い旅に出た時の歌の中の一首といふのが、万葉集の巻二の巻頭の相聞歌――かけあひの歌――の中にも、記載せられた。たゞ万葉には、他の三首(或は四首)の歌と共に、作者を其女みこの祖母なる、難波高津宮の皇后磐姫と伝へる点が変つてゐるのである。歴史に伝へる行跡を近代の感情で理解して行くと、女みこは極めてやさしく、心は其かんばせ[#「かんばせ」に傍点]に匂ふが如く、美しい女性《ニヨシヤウ》であつた。その祖母君なる万葉集の作者は、日本妬婦伝のはじめに居るほど、人をやき、おのれを燃すすさまじい情熱を伝へられたねたみづま[#「ねたみづま」に傍点]であつた。而も、その詠歌と伝へるものを見れば、かくの如く優に、然《シカ》、人をして愁ひしむる、幽かなる思ひを持つたお人と、昔びとは伝へて来たのであつた。史学者や、文学研究者は、古事記万葉の伝へのいづれかゞ誤つてゐる証拠を、この歌から獲ようとするだらう。だが其より大切なのは、嫉みづまと、情濃《ナサケコ》きあくがれ人との間に、共通するものを考へた、古人の心である。其に導かれる、今一つのこと、即ねたみづま[#「ねたみづま」に傍線]とつまわかれ[#「つまわかれ」に傍線]の物語とには、どうしても離れぬ程、根柢に疏通して居るものがあつたのである。一つの形式の伝へが同時に、他の形式の要素を具へて居らねばならぬ。さう言つた必須なる項が、此二つの間に横つてゐるのであらう。
近代風の物思ひより外にすることの出来ぬ我々は、どうかすれば、磐姫皇后の嫉みの中に、すさのをの[#「すさのをの」に傍線]尊の破壊の意思さへ感じることがある。此|人間期《ニンゲンキ》の大きな女性を、神の世界に考へあはせると、明らかに同じ様式として、大国主命の妻すせりひめ[#「すせりひめ」に傍線]を見るだらう。すせる[#「すせる」に傍点]といふ語は、我々の持つくすべる[#「くすべる」に傍点]・くすぼる[#「くすぼる」に傍点]に当る古代語であり、中世のふすぶ[#「ふすぶ」に傍点]と言ふ語の持つ、二つの意義を、そのまゝ兼ね備へてゐる。いぶし[#「いぶし」に傍線]・くすべる[#「くすべる」に傍線]と共に、ねたみ[#「ねたみ」に傍線]・やく[#「やく」に傍線]といふ用語例をも持つてゐたのである。即、やき媛、くすべ媛と言ふ、嫉みの女性なることを示す名であつた。まことに黄泉の国から、伴ひ帰つた女神だけに、嫉妬の感情までも、其国から携へ来つたものと考へられてゐたのである。我が古代人も亦、嫉妬を冥府の所産と信じてゐたことが、知られるではないか。
磐姫|嫉妬《ウハナリネタミ》の記述は、記紀いづれにもあるが、国語の表現に近寄つてゐるだけに、古事記の方が感じも深く、表現も行きとゞいて居り、古代人の官能まで、直に肌や毛孔から通ふやうに覚えるのである。語部《カタリベ》の物語――其は葛城部《カツラギベ》の伝承と名づくべきもので、記紀の此記述の根本となつてゐるものであらう――があつたとすれば、どれほど人生を美しく又|饒《ユタ》けく感ぜしめることであつたらうと、其飜文した古事記高津宮の、かの条から感銘を受けるのである。まことに、暢やかな長篇の叙事詩を見る心持ちを覚えるのは、私だけのことではあるまい。
甘美な叙事詩「天田振」が、文学以前にあつたことすら、我々にとつては大きな事柄である。其上、祖先の人々は、この辛くして舌に沁む美しさを湛へた志都歌《シヅウタ》の返《カヘシ》歌――葛城部の物語歌――を遺したのである。
「志都歌の返歌《カヘシウタ》」といふ名で、六首の歌が、宮廷の大歌所に古くから伝誦せられてゐた。さうして其一つ/\に古事記にある来歴が、順を追つて語られてゐたのであらう。その「志都歌之返歌」は、母胎として葛城部の物語を持つたことは、此後に述べる「叙事詩と名代部《ナシロベ》」に絡んだ推測を予《あらかじ》めすゝめて置く。

      宮廷詩の意義

古歌即、宮廷詩は、その来歴や、其歌詞をとつて名づけたものもあるが、其てくにく[#「てくにく」に傍線]による所の分類が多い。さうして後になる程、其々の部類――区画――に、新歌詞をとり入れた。本歌の外に、替へ歌が幾つとなく出来て来る訳だ。だから、記紀に伝はる其出来た場合の伝へや、其|主題《テマ》の傾向や、或は単にその名物などから、其々の歌のほんたうの来歴や、用途や性質は訣らない。まして大歌の末期とも言ふべき平安朝の状態によつてする、一切の判断などは、悉く無意味である。
静歌《シヅウタ》だとか、賤歌《シヅウタ》とか――一々理由は今説かぬが――直観式な解釈を語原に加へて見たところで、為方はない。大歌のすべてに共通した目的なる鎮魂呪術の印象を、――其が漸く忘れられて来た後までも、最著しく而も、後代的に変化した意味で――持つてゐたのが、志都[#「志都」に傍点]歌である。鎮魂信仰については長い説明を要するが、威力ある外来魂を、体内に安定する義(第一)、此方は、字は鎮魂であるが、語は古くはたまふり[#「たまふり」に傍点]と言つてゐる。
又、興奮によつて遊離する魂を鎮定する義(第二)以下、いろ/\の考へ方が生じて来たが、普通は、唯無意識に、不可抗的に遊離する魂が、体外に於て、他の危険な魂に行き触れるのを避ける為に、魂を呼び返し、体内に固着せしめると言つた呪術を、鎮魂法と考へてゐるのである。最古いのは、第一だが、第二義も亦早くから、信じられてゐたらしい。其は多く、怒りとなつて現れる。魂の遊離によつて、極度な憤怒を発する。其魂を体内に請《コ》ひ返して鎮めると、怒りは釈《ト》けるものと信じてゐた。憤怒の最素朴に発し、また鎮静した伝へは、雄略天皇に多かつた。采女《ウネメ》や舎人《トネリ》を殺さうとせられた怒りが、歌を聴いて、即座に之を赦す心に迫られたと言ふ類の伝へ、其から秦酒公《ハダノサケキミ》の琴歌によつて、闘鶏御田《ツゲノミダ》を免されたこと、木工|猪名部真根《ヰナベノマネ》の刑死する時、真根の友匠《ナカマ》の惜んで歌つた歌によつて命を助けられたことなど、歌もて怒りの魂を鎮めた伝への多かつたことが訣る。恐らく人の怒り哮《タケ》つた時、之を鎮める為に歌つた呪歌を、凡ゆるこの長谷《ハツセ》天皇の故事に基くものと伝へるやうになつたのであらう。其ほど又直に怒り、直に和む、古代人らしい心うつくしい、天子として伝へたのである。だから霊魂の怒りについて、尚此天皇の関聯を説く伝へが、令集解「葬喪令」の遊部《アソブベ》の項の古註にも見えるのである。長谷天皇崩じて後、殯宮における御むくろに鬚毛長く伸びるまで、御魂しづまることなく荒《アラ》びられたことを記してゐる。之を鎮めたことを以て、遊部《アソブベ》の職の起原を説いたのだ。霊魂の遊離発動が、怒りの原因となること、固よりである。死後にもかうして、怒りがあるとした。此らの怒りを鎮めた事の伝へから、男性の怒りに関することは、長谷天皇に仮託して言ふやうになつた。
志都歌の「しづ」は、第二義における鎮魂呪術に関して言ふのである。第一義の鎮魂は、「ふり」である。雄略朝の歌として伝るものは、概ね「志都歌」と言ふべきものなのだらうが、其中、古くて名高いものは、名高いだけに、各早く別々に独立した。天語《アマガタリ》歌などは最著しい鎮魂の来由を持つたものであるが、「志都歌」から出て、別の歌群を形づくつた訣である。さうして、「志都歌」と称せられるものとして、穏かな詞章だけが残つた訳である。だが、一方の「志都歌の返歌《カヘシウタ》」――此は、歌返《ウタガヘシ》だとする説もある――の方は、まだ名義がはつきりしてゐる。其程、鎮魂の意味をはつきり持つてゐるのだ。

      怒りと鎮魂と

古代の皇后は、その常に、聖事として、清き水と、清き水を以て天子の大御身を清める行事と、清き水の聖事をとり行ふ時の採《ト》り物《モノ》に関することは、躬らお行ひにならねばならなかつた。葛城部の伝承の主人公なる貴い女性は、採り物の一種、酒杯用の御綱柏《ミツナガシハ》を紀伊の国にとりにおいでになつた。其間に、後妻《ウハナリ》として八田若郎女《ヤタノワキイラツメ》を宮廷に召された。帰途、海上で其噂を聞いて、御綱柏を海に投げ入れ、御舟は高津宮の下を通り過ぎて、淀川を溯つて山代川(木津川)から綴喜の地に上られた。其から、故郷大和国葛城を望む為に、奈良山の登り口まで行つて引き返されたが、綴喜の韓種帰化人の豪族の家に滞在せられたと言ふ風聞に、高津宮の帝は、舎人|鳥山《トリヤマ》を迎へに遣された。
[#ここから2字下げ]
山背《ヤマシロ》にい及《シ》け 鳥山。い及《シ》けい及《シ》け。わが愛妻《ハシヅマ》に い頻《シキ》逢はむかも
[#ここで字下げ終わり]
又ひき続いて、丸邇臣口子《ワニノオミクチコ》を迎へにやられた。其に託せられた御歌、
[#ここから2字下げ]
みもろの其高きなる おほゐこが原。』
大猪子《オホヰコ》が腹に在る きもむかふ心をだにか、相思はずあらむ
[#ここで字下げ終わり]
も一つ、
[#ここから2字下げ]
つぎねふ山背女《ヤマシロメ》の 小鍬《コクハ》持ちうちし大根《オホネ》。』
根白《ネジロ》の白臂枕《シロタヾムキマ》かず来《ケ》ばこそ知らずとも言はめ
[#ここで字下げ終わり]
そこで、綴喜の宮に参つた口子《クチコ》、この歌を申し上げる際、どしや降りの雨が来た。雨にうたれ乍ら、御殿の前の戸に参りて平伏すると、やり違ひに後の戸に出られ、御殿のうしろ戸へ参つて平伏すると、引きはづして御殿の前戸にお出になる。山背川の川原にあつた御殿のことゝて、水層が増して来た。匍《ハラバ》ひながらお庭に平伏してゐる時、水は段々川を氾えて其腰のあたりにとゞいた。口子の臣は、その時、青摺衣《アヲズリゴロモ》を著て、紅の上紐《ウハヒモ》をひらつかせて居た。紅の紐に水が達《ツ》いて、色がおりる。青摺りが、すつかり真赤になつた。口子臣の妹の口比売《クチヒメ》、皇后のお供として、この宮に居た。其で、口比売のうたうた歌、
[#ここから2字下げ]
山背の綴喜の宮に もの請《マヲ》す。わが兄《セ》の君は、涙含《ナミダグ》ましも――紀、わが兄を見れば――
[#ここで字下げ終わり]
皇后が、さう言ふ歌を作つたわけをお問ひなされた時に、私の兄、口子臣でございますと申しあげた。――古事記
さて、口子臣、其からその女兄弟、其に宿主ぬりのみ[#「ぬりのみ」に傍線]、三人によつて考へを出し、天子に奏しあげさせた口状《コウジヤウ》は、皇后のいらつしやつた訣は、ぬりのみ[#「ぬりのみ」に傍線]の飼うてゐる虫の中に、ある時は這ひ虫になり、ある時は卵になり、ある時は鳥になり、三とほりに変る不思議な虫が居ります。この虫を御覧になつて入らつしやつたのです。よくない心は全然おありになりません。かう申しあげたら、天子様が、さうか、そんならおれも不思議と思ふから、見に出かけよう、とおつしやつて、宮廷から淀川を溯つてお出でになつた。ぬりのみ[#「ぬりのみ」に傍線]の家にお著きになつた際、其ぬりのみ[#「ぬりのみ」に傍線]自分の飼つてる三通りの虫を、皇后にさしあげた。さて、天子は、皇后のいらつしやる御殿の方にお立ちなされて、おうたひなされたのは、
[#ここから2字下げ]
つぎねふ山背女《ヤマシロメ》の 小鍬持ちうちし大根。
爽快《サワサワ》に汝《ナ》が言《イ》へせこそ、うちわたすやがはえなす[#「やがはえなす」に傍点]、来入《キイ》り参来《マヰク》れ
[#ここで字下げ終わり]
この天子と、皇后とのお歌ひなされた六つの歌は、志都歌の返歌――又、歌返しである。
この外にも、まう一首、おなじ仁徳記に、志都歌の返歌が伝つてゐる。
古事記の順序で見ると、此で、皇后の御心が鎮ることになつてゐるらしいのである。其後に、皇后宮廷の饗宴に参上した氏々の女たちに、柏をとつて、御酒を賜ふ
前へ 次へ
全7ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング