つのりと[#「天つのりと」に傍線]と言はれるものがあつて、其が恰も初めの天つのりと[#「天つのりと」に傍線]の様に聞える様になつたものらしいことである。だが元来天つのりと[#「天つのりと」に傍線]と称すべきものは、別にあつて、伝来尊く、伝襲厳しかつたところから、記録にも上らず、終には永劫に亡びてしまつたものと思はれる。
恐らくさうした、呪術関係よりも、儀礼の起原に即した詞章でなかつたかと思はれる。譬へば、「天窟戸籠り」に絡んだ詞章、「橘[#(ノ)]檍原《アハギハラ》の禊《ミソギ》」を伝へた詞章、「天つ罪の起原」、「すさのをの尊|神追放《カムヤラヒ》」に関した詞章、かう言ふ種類のものであつたらしく思はれるのである。が、今日「天つのりと」として推定することの出来るものは、先に言つた短章の呪術の章句ばかりである。即、我が文化の悠遠なることは、天つのりと[#「天つのりと」に傍線]に於いても、然《シカ》第何次かの変化の末を存してゐるものと思はれるのである。
大殿祭《オホトノホガヒ》の祝詞に見える、「……汝屋船《イマシヤフネノ》命に、天津奇護言《アマツクスシイハヒゴト》を以ちて言寿《コトホ》ぎ鎮め申さく、この敷きます大宮地《オホミヤトコロ》の底つ岩ねの極み……平らけく安らけくまもりまつる神の御名を白《マヲ》さく、屋船くゝのちの命・やふねとようけ姫の命と、御名をば称《タヽ》へまつりて……瑞八尺瓊《ミヅヤサカニ》の御吹《ミホキ》の五百《イホ》つ御統《ミスマル》の玉に、明和幣《アカルニギテ》・曜和幣《テルニギテ》をつけて、斎部[#(ノ)]宿禰某が弱肩《ヨワガタ》に太襁《フトタスキ》とりかけて、言寿《コトホ》ぎしづめまつれることの……」
詞章の様式や、その中に出る神宝から見ても、呪術に交渉の深いものだといふことが訣るだらう。さうして、此あまつくすしいはひごと[#「あまつくすしいはひごと」に傍線]の続きあひが、祝詞の中におけるあまつのりと[#「あまつのりと」に傍線]挿入の形と似てゐる。而もその意義も、あまつのりと[#「あまつのりと」に傍線]と言はれてゐるものと変る所がない。此斎部神主等のとり扱ひになつて居た「天ついはひ詞」が、斎部神事の常として、伝来や、外貌をもの/\しくする癖から、「天つのりと」の名を冒《ヲカ》すやうになつたものではないかと思はれるのである。
如何に誇張しても、いはひごと[#「いはひごと」に傍線]とのりとごと[#「のりとごと」に傍線]とは、一つにはならぬ。のりと[#「のりと」に傍線]はのりと[#「のりと」に傍線]である。いはひごと[#「いはひごと」に傍線]を以て祝詞に所属せしめたのは、平安朝に到つてからのことであらう。其も、其中の伝来正しく寿詞《ヨゴト》とも言ふべきものに限つてゐるやうである。呪術の呪言を天つのりと[#「天つのりと」に傍線]と称するのは、何としても、僣称するものがあつて言ひはじめたことが、世間の無知によつて、一般に通る様になつたのだと言ふ外はない。
新室寿詞
寿詞と呼ばれるものは、古伝の詞章では、今一つあつた。顕宗天皇・仁賢天皇若くして、播磨の奥、縮見《シジミ》の邑に隠れ居られた時、新嘗使《ニヒナメツカヒ》として、其家主細目の家を訪れた山部小楯を中心にした新室宴《ニヒムロノウタゲ》に、弘計《ヲケノ》王の唱へられた「室寿詞」が伝つてゐる。「むろほぎのよごと」と言ふ風に訓むのがよいのではないかと思ふ。此は、寿詞といふ字で伝へられたものゝ古い完全なものゝ最初であるが、伝来を、顕宗天皇に寄せて説いてゐるが、起原と、伝承の径路は、自ら別に推測せられさうなものである。
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築《ツ》き立《タ》つ 稚室葛根《ワカムロツナネ》
築き立つる柱は、此|家長《イヘヲサ》の御《ミ》心の鎮りなり。
とり挙ぐる棟梁《ムネウツバリ》は、此家長の御心の賑《ハヤ》しなり。
とりおける椽※[#「木+僚のつくり」、395−1]《タルキ》は、此家長の御心の斉《トヽノホ》りなり。
とりおける蘆※[#「權のつくり」、第4水準2−91−83]《エツリ》は、此家長の御心の平《タヒラ》ぎなり。
とり結《ユ》へる縄葛《ツナネ》は、此家長の御《ミ》命の堅《カタ》めなり。
とり葺ける草葉《カヤ》は、此家長の御富《ミトミ》の剰《アマ》りなり。
出雲は、新墾《ニヒバ》り。
新墾りの 十握稲《トツカシネ》の穂を
浅甕《アサラケ》に醸みし酒《ミキ》を
美《ウマ》らに飲喫《ヲヤラフ》る哉《カネ》。
吾子等《ワコタチ》。
あしびきの 此|傍山《カタヤマ》のさ牡鹿の
角さゝげて わが舞へば、
うまざけ 餌我市《ヱガノイチ》に
直《アタヒ》もて易《カ》はず――
手掌摎亮《タナソコヤラヽ》 拍上《ウタ》げ給へ。
吾が長寿《トコヨ》たち――日本紀顕宗即位前紀
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此寿詞は上中下三段に分れてゐるものと見られる。家長を祝福した前段と、吾子たちと呼びかけた饗宴に列座してゐる人々に対して言ふ詞章と、とこよ[#「とこよ」に傍点]たちと言ひかけた客人《マレビト》に申す詞との三段である。
新嘗を行ふ為には、原則としては、新嘗屋を作るのであるが、後世は多く旧屋を以て新室の如く見なし、寿詞《ヨゴト》が其を、新しく変化せしめる効果あるものとした。だが此伝へでは、新嘗屋を築いたことになつてゐる。
新室《ニヒムロ》の古びない力を讃めて、稚室《ワカムロ》といひ、其各部を縛り、殊に屋上から結び垂して、地上に届くまでに結びさげた蔓を以てした綱の長きを仰ぎ乍ら、讃め詞ははじまるのである。第一、柱ぼめ。家あるじの気分のどつしり落ちつく様に圧へてあることが思はれるといふのである。第二、棟ぼめ。屋根裏に放射した棟梁類のはなやかさは、家あるじの気分の饒しくなるを表示すると言ふのだ。第三、椽の類の均整して並んでゐるのを見れば、かくの如く家あるじの気分は乱れることはないと祝福するのである。葺草《カヤ》下地の凹凸なく葺かれてゐるのを見ると、気分の変化動揺なく続くことが察せられるとするのである。堅くひき結《ユハ》へた綱の結び目を、命の脱出を防ぐ結び目と見て祝《ホ》ぐのである。切り揃へずに、軒に葺きあました葺草の程度以上なる如く、此家あるじの富みも、際限はなからうと、讃美してゐる。
第二段は、かくの如く出来あがつた新室の作業に、共に働いた同族の人たちに呼びかけて、吾子たちと言つて、酒を勧めるのである。此酒は、新墾りの出雲の豊年の今年の稲を以て、浅甕に醸した酒だ。十分に飲んでくれる様にというてゐる。新室の祝ひには、共通の発想法で、労働を共にした様を思ひ返し乍ら、うたげ遊ぶのである。
後段は、客座に向つて唱へる詞で、恐らく謡《ウタ》に近いものであらう。舞人は、饗宴に必伴ふものである。主人の娘或は、家人が勤める役である。家屋の精霊の出て、賓客を讃美すると言ふ信仰から出たものであつた。鹿が農村の為に降伏して作物の妨げをせぬ事を誓ふ状を模する舞踊が、古く行はれてゐた。其が新室宴にも採用せられてゐるのであらう。角さゝげてと言ふのは、「あしびきの」以下が、序歌になつて来てゐる。手を投げて舞ふことを、ささげてと言ふ語で表したのらしい。かう言ふ風に、出来るだけの奉仕をするからは、客人たちも、「存分に無条件に、志をおうけ下されて」の意味を、「直《アタヒ》以て易《カ》はず」で示したのだ。代物で交易すると言ふ意識なくといふことである。餌我の市は、南河内石川のほとりの恵我の市である。「うまさけ」は枕詞、前段の酒の聯想から来たまでである。こゝでは酒の事は言はないで、たゞ恵我市で交易する様な気にはならず、「十分気をゆるして、無条件でお受け下さい」といふのである。「たなそこやらゝに云々」は、饗宴の楽しみを享受する様。志を賓客の納受した表出を見たいと望むのである。とこよたち[#「とこよたち」に傍点]は、長寿者たちの義で、第一義の常世《トコヨ》の国は、富と、命と、恋の浄土とせられた古代の理想国である。其処に住んで、時あつて、この土へ来る人あるを想像して、とこよ[#「とこよ」に傍点]と言つたのである。古来饗宴の賓客を、神聖なものとして、常世の国からの来訪者と考へて来たのが、わが国の民俗である。
此寿詞について、尚一つ言はねばならぬことが残つた。其は、文中に在る二つの地名である。出雲は、恐らく本国出雲ではあるまい。出雲人の移動して住みついた地をさすものと思はれる。此処の恵我市と相叶ふ出雲は、恵賀に近い土師郷附近である。此は出雲宿禰から分れた土師宿禰の根拠地である。此外にも、姓氏録には、河内の出雲宿禰姓が記録せられてゐる。土師・恵我は同郡、隣郡古市郡には、又恵我古市がある。何にしても此は、新室の寿詞の、河内に行はれてゐたものゝ形である。さうして、出雲恵我を言うた理由は、恐らく偶然ではなからう。出雲人の中、建築に交渉の多い者のあつたことは、すさのを[#「すさのを」に傍線]の命の出雲八重垣の歌、大国主のたぎしの小浜の火|燧《キ》りの呪詞、播磨風土記の出雲墓屋《イヅモハカヤ》の条、引いては出雲人で河内に移住し、土師氏の祖先となつた野見宿禰の陵墓に関する伝承等が示してゐる。墓屋や陵墓の築造は、昔は、建築事業になつてゐた。出雲建築が、古代文化の上に著れて居た時代があるのである。出雲人の建築法と、新室営造との関係はわかつても、之が両天子に持つた交渉は、知ることが出来ぬ。たゞ今の間は、河内人の間に行はれてゐた新室の寿詞が、何かの機会に、久米若子の伝承にとり入れられたものと見ておく外はないと思ふ。
寿詞と恋歌との関係
ある種の考へ方をする人には、思ひがけないことかも知れぬ。古代日本の文学以前の詞章に、悲恋悲歌とも言ふべきものゝ多かつたことである。其と、も一つ意外なことには、配偶《ツマ》争ひの「物語」や、「物語歌」が、相当に伝へられて居た。配偶《ツマ》争ひと言ふ語は、少し不正確である。二人でその同性が、一人の異性を獲ようとして争ふと言つたことの外に、夫《ツマ》と婦《ツマ》とが争闘することも、「つまあらそひ」と言ふ語に這入る。だがさう言ふ繁雑《ヤヽコ》しい用語は避けた方がよい。前者を常識に任せて、「つまあらそひ」と呼んでおき、後者の中を、その姿によつて、別々の名をつけておく。配偶《ツマ》どうしの間に相闘ふ物語を、つまどひ[#「つまどひ」に傍点](求婚)、ねたみづま[#「ねたみづま」に傍点](妬婦)、つまさり[#「つまさり」に傍点](離婚)の物語と言ふやうに、大体三通りに画《クギ》り、配偶《ツマ》どうし安らかに相住むことが出来ないで、別れて暮すことを伝へるものを、つまわかれ[#「つまわかれ」に傍点](配偶別離)の物語と言ふ名にしておけば、凡は、共通した処、差別のある処も明らかになるであらう。
妬婦伝と相愛別離譚とは、全然別殊のものだと思ふ人がないとも限らぬ。が少くとも、古代日本のつま物語りには、如何にしても放つことが出来ないほどの絡みあひ[#「絡みあひ」に傍点]があるのだ。
其分類のよつて来る所を言ひながら「つま[#「つま」に傍点]物語」の原因も説いて行けると思ふ。
つまわかれ[#「つまわかれ」に傍点]の物語のあはれは、日本人が記録書を持つた時代には、既に知り尽し、聞き旧《フル》して居た。記紀万葉其いづれを見ても、我々の想像もつかぬ程古き世の祖先を哭かしめ、愁ひさせた長物語が、少からず載せられてゐるのである。その最古代の人ごゝろを泣き覆らしめたものは、「天田振《アマタブリ》」と言はれた歌群と、其から其等と起原が一つだとして伝へられてゐる歌々である。
人の家の子としてはこの上なく貴い兄みこと妹みことが、つまどひの末、兄は宮を追ひ逐《ヤラ》はれる。古事記は、如何にもさうした物語が記録以前に、語《カタ》りを職とする者によつて、世に広く、時久しく諷誦せられたことを思はせるやうな、美しい歌詞の多くと、其を擁《イダ》く叙事体の詞章の俤を止めてゐる。日本紀にも、簡単ながら
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