ウツ》しの道具となつてある為に、御気分は何時も/\此|倭文織《シヅオ》りのしつかりしてゐる様に確かであり、水に縁ある譬へで申さば、向うに見える古川岸、此方に見える古川岸、古川の川岸に育つた若水沼《ワカミヌマ》の女神《メガミ》の如く、時が経つほど益お若返り遊ばし、又此穢れを祓ひふりかける淵の凝滞《ヲド》みの水の、変若《ヲチ》返りに愈|変若《ヲチ》返り遊ばし、此又澄みきつた御鏡を御覧になつて、どこのどこまでも御覧じ遂げなされる様に、この生き神様が、大八洲国を、天地日月のつゞく限り、安らかに、なだらかにお治めになることの兆しとして、御祝福の力を発揮する所の神聖なる呪物の品々を、この通り、捧げ持つて――神としては、宮廷への敬意の表現・大身の臣下としても宮廷への敬意の表現として、何処々々までも敬虔な心を持つて、恐れながら神聖なる継承による、我が家伝統の神秘な祝福の寿詞《ヨゴト》を、かくの如く奏上いたします次第と、申しあげます。
[#ここで字下げ終わり]
此は、所謂「出雲国造神賀詞《イヅモノクニノミヤツコノカムヨゴト》」の拙劣な飜訳であるが、――出雲国造新任の後、再度上京して、其度毎に神宝――呪物の神器と、御贄《ミニヘ》の品々を献り、この神賀詞《カムヨゴト》を唱へて主上を呪し奉る例になつてゐた。出雲[#(ノ)]国造家に伝へた祖先穂日命以来の慣例である。呪詞の上にあがつて居る――「白玉・赤玉・青玉・横刀・白馬・白鵠・倭文布・真澄《マソビノ》鏡及び聖なる水」は、この呪法の為に持参した神宝の類なのである。其を以て、呪しつゝ、一つ/\の品物の名称を、其効験に関係させた表現をして行く、――此が、呪的効果を発揮させる方法だと考へたのである。呪物の名と、呪物の効験とは、無関係であつたのを、更に詞章精霊《コトダマ》の活動を信じる時代になつて、さうした二重の効果を合理的に考へる様になつたものである。かうする手段によつて、呪物と呪力との威力を完全に発現させようと努めるので、此等の呪物は皆、霊魂を斎鎮《イハ》ふ為の神器であり、其によつて鎮め籠められることに深い意義を感じてゐるのであつた。
霊魂を鎮斎する技術は、単に、技術として発達して行くのであるが、之は其施術者が受術者に対する服従表白の手段であつた。其斎ひ憑《ツ》ける所の霊魂は、施術者の持つた、其人自身の威力の根源になつてゐたものである。之を他につけることが、絶対の服従を表現するものであつた。信仰の表には、必しも技術を要する様には見えて居ない。唯詞章の威力に乗せて、完全に対者の身に霊魂を送り籠め、鎮定させることが出来るやうに見えるが、此には必技術が伴つて居たことに疑ひはない。後々の如く技術が修練せられてゐなかつたらうが、其行はれてゐたことは明らかである。唯其が次第に熟達して、個々の旧族固有の方法と、其に呪物が分化し、各其伝統と効験を誇るやうになり、鎮魂術は成立したのである。
だから、服従を誓ひ、忠誠を表現する手段として唱へた詞章は、寿詞《ヨゴト》といふ古語を用ゐた。其が転じて、対等或は其以下の者にも行ふことの出来る技術となつては、鎮護詞《イハヒゴト》なる名と、其に従ふ内容の分化が起つたのである。さうして、現代に残つた平安朝祝詞は、古来ののりと[#「のりと」に傍点]に、極めて多量のいはひ詞式の分子を包含させて来たのである。
祝詞が、寿詞要素を多く持つた様に見えるのは、その系統なるいはひ詞の分量が勝つて来た為なのであつた。のりと[#「のりと」に傍点]の古風な形態は、其部分を排除して見れば、顕れて来る訣である。そこに出て来る姿は、宣命・祝詞分化以前のもので、どこまでも宣命に近い様式と、内容とを持つたものと考へられる。
こゝに更に明らかに、のりと[#「のりと」に傍点]とよごと[#「よごと」に傍点]との対立の姿が、現れて来る。いづれにしても、今在るものは、悉く第一義の古い詞章ではない。唯伝承を信じれば、寿詞は、大嘗祭の行はれる毎に、中臣[#(ノ)]神主の奏上した「中臣天神寿詞《ナカトミノアマツカミノヨゴト》」と、「出雲[#(ノ)]国[#(ノ)]造[#(ノ)]神賀詞《カムヨゴト》」とが極めて久しい伝来のものと思はれてゐる。が、詞章の部分々々には、必しも第一次の姿でもなく、古代さながらの形だとも言へないものがある。唯通覧した外見に、極めて古式な情調を保留してゐると言ふのが、一番当つてゐるだらう。
勿論意識して詞章を改作することは、神授詞章に対する冒涜になるから、昔の人の能くする所ではないが、古語の忘却が、次第に無意識の変化を促したのである。而も、一方には、詞章の神秘性を絶対に信じてゐる為に、意識不明のまゝに固定した句・文・段が、移り行く詞章の上に、化石の如く残つたのである。此が即、祝詞寿詞の上に見える解釈法の及ぶ所と、其及ばぬ所とのある理由である。何よりも第一に、古代の詞章が近代の人の解釈に堪へることについての素朴な疑念が物を言ふ。現存の形の固定するまでに幾度も/\改竄せられて来たものであると言ふ外に、此問題は解くことは出来ない。最古い物は、殆永遠とも言ふべき永い時間に徐々に変化して、或は原形を残して居ぬ程になつたことであらう。今日あるものゝ古いものも、さうした改作の上に現れた、古典色彩の濃厚なものと見るべきであらう。さうしてわりあひに意義の概観に不便な化石層とも謂ふべき古詞章の固定したものを残すことの少い理由は、一往全体に変化が行き渉つたといふことの外に、全体に行き亘つての整理が、行はれたことが考へられるのである。神の許《ユル》しが、必ある方法によつて、予期出来たのであらう。さうでなくば、たとへば、右の両寿詞にしても、あの程度の快い詞章感を保つことは出来なかつたであらう。
右の古詞章の中、出雲国造の分は、延喜式に記録せられてゐるから、その完全な固定は少くとも、平安朝の初期位まで溯つて見るのを適当だと考へる。が、中臣の方は、平安朝末に記録せられた形であつた。藤原頼長の台記別記に、記入せられた大中臣清親の記録である、近衛天皇即位の康治元年当時の形である。尠くとも、康治に改作せられた部分も、考へることが出来る。
[#ここから2字下げ]
「……堅磐常磐《カキハトキハ》に斎《イハ》ひまつりて、いかし御世に栄えしめまつり、康治元年[#「康治元年」に二重傍線]より始めて、天地日月と共に、照し明《アカ》らしましまさむことに、本末《モトスヱ》傾かず、いかしほこの中《ナカ》執《ト》り持ちて、仕へ奉る中臣|祭主《イハヒヌシ》正四位上神祇大副大中臣清親[#「正四位上神祇大副大中臣清親」に二重傍線]寿《ヨ》詞をたゝへ、こと定めまつらくと申す。」
[#ここで字下げ終わり]
傍線の部分は、大嘗祭毎に、年号・祭主の氏名を入れ替へて唱へたに違ひないのである。
出雲の方にしても、
[#ここから2字下げ]
「八十日々《ヤソカビ》はあれども、今日の生日《イクヒ》の足日《タルヒ》に、出雲[#(ノ)]国[#(ノ)]国造《クニノミヤツコ》姓名[#「姓名」に二重傍線]恐み恐みも申したまはく……手長《タナガ》の大御世を斎《イハ》ふとして……」
[#ここで字下げ終わり]
「姓名」とある部分は、其時の国造の姓名出雲臣ヽヽといふ名詞が入れ替へられるのだから、数音の変化はあつた筈である。又「斎ふとして」の処は、延喜式に、『若、後斎[#(ノ)]時者、加[#二]後字[#一]』とあるから、こゝも、其都度一語の変化があつたのである。かう言ふ必要な変化や、入れ替へは、相当にあつた筈だが、此二つの記録によつて推測しても、延喜式や、台記に記される以前に、既に記録せられて久しかつたといふことである。唯記録になつてゐることは、表面は、秘密であつたらう。さう考へるのが一番適切である。而も、記録しながら、してゐない貌をつくつて居るところに、深い意義があつたのである。
呪詞の記録
宮廷公式用の詞章は、弘く発表せられるのだから、秘密にすることはない。早くから記録となり、国史に載せられてゐることは、宣命・詔旨の類で見ても明らかだ。が、のりと[#「のりと」に傍点]になると、さうは行かなかつたであらう。だが其とて、皇親・官吏・神職等列座の儀礼の一部分なのだから、周知の詞章である。結局、式・儀式類の、人の見る書類に記録するに到るのは、さうあるべき道筋であると言へる。
だがさうした公式のものゝ外は、詞章の神聖なる力は、周目にさらさぬ所に保たれるのだから、神秘を要するものとして、記録はしなかつた。其上、唱へる際も、列座の耳にも入らぬ程、微音に発語したものと思はれる。延喜式祝詞に度々出て来る「天つのりとの太のりとごとを持ちて申さく」とあるのは、場所によると、其後につゞく部分が、後世の人には、如何にも「天つのりと」らしく見えるのだが、事実は、其「天つのりと」を唱へにかゝると、扱ひ方が違つたと見えて、其詞章は抜いてある。先に訳した中臣寿詞の「天都詔刀の太詔刀言を以ちて宣《ノ》れ。かく宣らば、兆《マチ》は、弱蒜《ワカヒル》に五百箇《ユツ》篁《タカムラ》生ひ出でむ……」、古代も、その条で天つのりと[#「天つのりと」に傍点]を唱へたと信じてゐた為に、此寿詞を唱へる度毎に、やはりこゝになると、天つのりと[#「天つのりと」に傍点]なる呪詞を唱へたのである。此などは、後世の理会からすると、天つのりと[#「天つのりと」に傍線]を挿んで唱へない方が、却て適切らしく思はれる位である。「かく宣らば」と言ふ語は、其天つのりと[#「天つのりと」に傍線]を唱へ終へてから「天つのりとも、左様に唱へた上は」といふ形で、又祝詞の本文に戻るのである。
[#ここから2字下げ]
「……天つ宮事《ミヤゴト》もちて、大中臣、天つ金木《カナギ》を本うちきり、末うち断ちて、千座《チクラ》の置座《オキクラ》におき充《タラ》はして、天つ菅曾《スガソ》を本刈り断ち、末刈り切りて、八針にとり辟《サ》きて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ。かくのらば、ヽヽヽ」――六月晦大祓
[#ここで字下げ終わり]
「ヽヽヽ」は、天つのりと[#「天つのりと」に傍線]の別に唱へられることを示してゐる。此間に、斎部が呪詞を唱へて、呪術を行ふのである。
鎮火祭《ホシヅメノマツリ》・道饗祭《ミチアヘノマツリ》の祝詞などは、最後に、天つのりと[#「天つのりと」に傍線]云々の文句がついてゐるので、本文がすべて天つのりと[#「天つのりと」に傍線]らしく見える。が、其祝詞以外に、呪詞を別に唱へしづめたのである。
[#ここから2字下げ]
「天の下よさし奉《マツ》りし時に、ことよさしまつりし天都詞《アマツノリト》の太詞事《フトノリトゴト》を以ちて申さく、神いざなぎ・いざなみの命……ことをしへ悟し給ひき。此によつて……進《タテマツ》る物は、……横山の如く置き高成《タカナ》して、天津祝詞の太祝詞事を以ちてたゝへ、辞《コト》をへまつらくと申す。」――鎮火祭
「……親王たち・王たち・臣たち・百官人たち・天の下の公民に至るまでに、平らけく斎ひ給へと、神官《カムツカサ》天津祝詞の太祝詞事を以ちてたゝへ、辞をへまつらくと申す。」――道饗祭
[#ここで字下げ終わり]
鎮火祭の方は、如何にも、祝詞の大部分が、天つのりと[#「天つのりと」に傍線]のやうに見える様な形になつてゐるのだが、道饗祭の分を参照すれば、天つのりと[#「天つのりと」に傍線]は、別に唱へられた事が推測出来る。つまり、天つのりと[#「天つのりと」に傍線]に移る部分と、其がすんで本文に還る処との継ぎ目の様子が、変化して来たのである。殊に最後の「天つのりと云々」の続きあひを見ると、其が知れるであらう。
併し若し万一の偶然に依頼してよければ、鎮火祭の祝詞の火産霊神の生れ、其神の威力を防ぐ為の呪物を母神が教へられたと説く部分は、天つのりと[#「天つのりと」に傍線]なのかも知れぬ。若しさうならば、愈天つのりと[#「天つのりと」に傍線]と言はれたものゝ本体を知ることが出来るのである。
さうでなくとも、察せられることは、ある呪術に直属した短い詞章に、天
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング