きたかひこねの」に傍線]神・垂仁天皇の皇子ほむちわけの[#「ほむちわけの」に傍線]皇子の御伝に見える、養育譚があつた訣で、其は、順序をかへて、御兄弟の允恭天皇の御成人の後の章に、俤を見せてゐる。尚ほむち[#「ほむち」に傍線]部に、忘れ残りに語り置かれた部分がある。古事記に、「即、曙立《アケタツ》王・莵上《ウナカミ》王二王を、その御子に副へ遣る時、那良|戸《ド》よりは跛《アシナヘ》盲《メシヒ》遇はむ。大坂戸よりも跛盲遇はむ。唯、紀戸ぞ、脇戸《ワキド》の吉《ヨ》き戸《ト》と卜《ウラ》へて、出で行かす時、到り坐す地毎に[#「到り坐す地毎に」に傍点]、品遅部《ホムチベ》を定めき[#「を定めき」に傍点]」とある。漂遊・定住二つの形が、此等の部曲の村々の上に、現れて居た一つの証拠である。
一筋の類型的な物語の中で、部曲の性質職掌によつて、ある部分が発達し、他の部分が減退し、又は、全部を失うてしまふ事すら、あつたと思はれる。さうして、其残つた物語が、その部落・部曲の職掌に、深く関聯を持つてゐる本縁譚の様に考へられたのだらう。私部の方で見ても、先に述べた様に、大国主・沼河媛の結婚形式を前型として、儀礼の行はれた処から、其が叙事詩化して伝つた大春日皇后伝、及び其を伝へた部落・部曲が出来、後に、其によつて、其地其物成の私有が保障せられて行く様になつたものなのだ。又万葉巻十三を見ても、泊瀬の地に、同類の伝へを有するものゝあつた事が知れる。恐らく雄略天皇の皇妃に関するものなのだらう。譬へば、又その雄略后と仁徳后との、お二方では、御性格的に非常な相違がある様に、歌の上から想像出来る様に伝つてゐるが、大国主におけるすせり[#「すせり」に傍線]媛の歌及びそれから類推せられる御性格や、傾向の分化して来た痕を見るべきである。御名代部の起因の、古い伝へなる仁徳紀の八田稚郎女の伝記如きも、その御為の私部の――皇女の場合は八田部の――成立を物語る、古い一つの伝へであつて、必しも其頃から、後の意味の名代があつた、と言ふ事にはならないのだらう。
其が次第に、逆に名を伝へる為、伝統継承者のない為と言ふ考へを派出し、生存の記念を、後世に伝へようと言ふことから出たと考へる様になつて来たのだ。
いづれにしても、さうした新立の部曲・部落では、その創立者或は、創立者に擬せられた貴人の物語を語る事によつて、其々の存在が価値
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