詞を伝承し記憶を新にさせることにあつた。而も其詞章は、天地の元《ハジメ》、国の元から伝はつてゐる、と信ぜられた一方、次第に無意識の変化改竄を加へて、幾多の形を分化した。又季節毎に異人の来訪を欲する心が、週期を頻繁にした。その都度、扮装《ヤツ》した神及び伴神が現れて、土地の精霊に降服起請を強ひるのが詞の内容であつた。此が即ことゞひ[#「ことゞひ」に傍線]で、後世の所謂いひかけ[#「いひかけ」に傍線]・唱和及び行動伝承としての歌垣のはじめに当る。このことゞひ[#「ことゞひ」に傍線]に応へない形式からしゞまの遊び[#「しゞまの遊び」に傍線]――後の※[#「やまいだれ+惡」、第3水準1−88−58]見《ベシミ》芸――が起つて来、更に、口を開いて応へる形――もどき芸――が出来て来る。この両様の呪詞が、一つは所謂祝詞と称せられるものゝ原型であり、応へる側のものが寿詞《ヨゴト》と称する、種族・邑落の威霊の征服者に奉ると云つた意味の寿詞――賀詞――となつて行つたのである。
この呪詞が、常世の国から将来せられ、此土のものとなつたと考へ変へられて行く様になつた。が、その威力の源は、常世にあるといふ記憶を失はなかつた証拠はある。のろふ[#「のろふ」に傍線](呪)が、もと宣言であり、同時に精霊に対する呪詛であつたのが、呪詛の一面に偏して行つたのと同じ動きを見せてゐる語に、とこふ[#「とこふ」に傍線](詛)なる語がある。その語根とこ[#「とこ」に傍線]は、尠《すくな》くともとこよ[#「とこよ」に傍線]の語根と共通するものであり、又さう考へられてゐたことも事実だ。つまり、宣言・呪詛両方面に、常世の威霊が活動したことを示すのだ。更に、祝詞を創始した神として伝はる思兼[#(ノ)]神は、枕詞系統の讃美詞《ホメコトバ》を添へた形で、八意《ヤゴヽロ》思兼[#(ノ)]神、又常世[#(ノ)]思兼[#(ノ)]神と称へられてゐた。八意は呪詞の数の限定せられてゐた時代に、一つのものを以て幾つかに融通した為、一詞章であつて数種の義を持ち具へてゐる事を欲した為の名である。さうした事の行はれるのは、一に常世の威霊によるものとせられた。で、この神の冠詞として、常世なる語をつけたのである。かういふ宣詞とも名づくべきものゝ古い形が、今日では痕跡も残存してゐない。非常な分化を遂げた後のもので、而も其用途さへ著しく変化した祝詞から演繹して来る外に、方法はない。だが其も、宣詞及び呪詞の幾種類かを比較して見ることによつて、或点までは確めることが出来るのである。

     二 宮廷及び邑落の生活

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(一)明神御宇日本《アキツミカミトアメノシタシロスヤマト》[#(ノ)]天皇《スメラガ》詔旨[#(ラマト)]、[#ここから割り注]謂[#下]以[#二]大事[#一]宣[#中]於蕃国使[#上]之辞也。[#ここで割り注終わり]云々咸聞。
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明神[#(ト)]御宇[#(ス)]天皇[#(ガ)]詔旨[#(ラマト)][#ここから割り注]謂[#下]以[#二]次事[#一]宣[#中]於蕃国使[#上]之辞也。[#ここで割り注終わり]云々咸聞。
明神[#(ト)]御[#二](宇)大八洲《オホヤシマクニ》[#一]天皇[#(ガ)]詔旨[#(ラマト)]、[#ここから割り注]謂用於朝庭大事之辞。即立[#二]皇后皇太子[#一]、及元日受[#二]朝賀[#一]之類也。[#ここで割り注終わり]云々咸聞。(以上、公式令、詔書式)
[#ここで字下げ終わり]
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(二)八月甲子朔、受[#レ]禅即[#レ]位。庚辰詔曰、現御神[#ここから割り注]止[#ここで割り注終わり]大八島国所知天皇大命《オホヤシマグニシロススメラガオホミコト》[#ここから割り注]良麻止[#ここで割り注終わり]詔大命乎《ノルオホミコトヲ》……(続紀、文武元年)
(三)二月甲午朔戊申天皇幸宮東門使蘇我右大臣詔曰|明神御宇日本倭根子《アキツミカミトヤマトシロスヤマトネコ》天皇詔……(大化二年紀)
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詔曰、明神[#(ト)]大八洲所知倭根子天皇大命[#ここから割り注]良麻止[#ここで割り注終わり]宣大命乎……(宝字元年七月紀)
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(四)大日本根子彦国牽天皇、大日本根子彦太瓊天皇太子也。天皇以[#二]大日本根子彦太瓊天皇三十六年春正月[#一]立為[#二]皇太子[#一]……七十六年春二月、大日本根子彦太瓊天皇崩。(孝元紀)
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日本根子天津豊国成姫天皇、少名阿閇皇女……(元明紀)
日本根子高瑞浄足姫天皇、……日並知皇子尊之皇女也。(元正紀)
[#ここで字下げ終わり]
宮廷に於ける呪詞も此径路を踏んで発達してゐるので、令義解の解説――細字の部分[#「細字の部分」は割り注で処理]――は、必しも古い形を説明してはゐない。正確に言へば、此詔詞が最適切に用ゐられる場合は、即位式並びに元旦朝賀の時である。御代の初めの宣言を行はせられた即位式は、古くは大嘗祭と一つ儀礼である。一方、元旦は言ふまでもなく年の初めだ。即、御一代一度の行事が、一年一度の行事と一つだ、と考へられた事を示してゐる。而も、外蕃に対しての関心を持たない時代の詔詞は、大倭根子天皇なる御資格を以て、大儀礼を宣せられたのだ。其で「大倭根子……天皇」と謂つた御諡を持たれた御方々がおありになる訣だ。詔詞の始めに据ゑた御資格が、御生涯を掩ふ御称号となつたのである。
古代日本の生活は、必しもその一番大きな生活様式であるところの、宮廷の様式だけを論じてすますわけにはゆかぬ。各邑落に小さいながらも、同じ様式の生活があつたと見る事が出来る。断つて置かねばならないのは、言ふまでもなく邑落・種族によつては、全く違つた生活様式もあるのだけれども、だん/\上の生活を模倣して来る。此が、われ/\民族の古代生活に於ける、一つの生活原理なのだ。だから、宮廷の生活は、或点まで総ての貴族・邑落の君主と同様だと言ふことが出来る。其立ち場に立つて言うてゆけば、話が非常に簡単に進んでゆく。宮廷生活に依つて、民間の生活が見られると共に、邑落の生活から、逆に、宮廷の生活の古風を考へることが出来る。
邑落の生活、或は後々の貴族の生活で見ると、異人になつて来る者は、多く其家の主人であつた。其を接待する役は、其人に最《もつとも》血族関係深く、呪力を持つ女性が主として勤めてゐた。処が、日本の神道に於いては、女性の奉仕者を原則とするものゝ上に、更に、家長を加へたものが段々ある。其で宮廷に於いては、尠くとも天子は、大祭の際にはまれびと[#「まれびと」に傍線]であり、あるじであると云ふ矛盾した而も重大な立ち場に立たれる。此が宮廷に於ける主上が、祝詞を発せられる根本の理由だ。だから、祭事に参与する宮廷の高級巫女は、主上の御代役をしてゐる方面もある。
其宮廷の祭に於いても、主上が人々の上に臨んで宣布せられる詞章は、元《ハジメ》の代《ヨ》に、一度来臨した尊いまれびと[#「まれびと」に傍線]の発言せられた、と信じられて来たものなのである。其が、世が進み、社会事情が複雑になるにつれて、大同小異の幾種類かの呪詞を分化して来る。併しながら、其一番初めのものに近い形と考へられてゐるのは、詔書式に見えた朝拝の詔詞よりない。而も恐らく、此が主上の御躬づから発せられる詞章として、断篇化して残つたものと思はれる。其他の詞は、宮廷神人で、主上の御代役をした神主が、代宣することになつて行つた。延喜式の祝詞――此が現在残つてゐる最古い祝詞の一群を含んでゐる、といふ点に誤りはないが、其全体並びに、固定した一部分すらも、われ/\にはそんなに古いものだとは思へない。唯、其中には、古い種も存してゐると言へるだけだ。其が、われ/\にとつて、古い呪詞を考へる唯一の手がゝりである――によると、中臣|祝詞《ノリト》と、斎部《イムベ》祝詞の二種類の区分を考へてゐたのは明らかだが、其性質から見ると、平安朝に近づくに従つて、中臣の掌る祝詞は、天子の代宣なる形を見せて来、斎部の祝詞は、天子に奏上する精霊の側の詞章から、だん/\変化して来た跡が見える。而も、例外はあるが、主として伝来の古いといふ条件を示す「天つ祝詞」と言ふ語は、斎部祝詞に属するものに見えてゐる。さすれば、祝詞に関する信仰・知識は、延喜式のものは、非常に変化した形だと云はねばならぬ。だから、われ/\が祝詞を研究するには、現存の材料を考察するだけでは、結局無駄な努力になつてしまふのだ。

     三 中語者の職分

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時天照大神誨[#二]倭姫命[#一]曰、是、神風伊勢国則、常世《トコヨ》之|浪《ナミ》[#(ノ)]重浪帰国也《シキナミヨスルクニナリ》。傍国可怜国也《カタクニノウマシクニナリ》。欲[#レ]居[#二]是国[#一]。故随[#二]大神教[#一]其祠立[#二]於伊勢国[#一]。因興[#二]斎宮于五十鈴川上[#一]。是謂[#二]磯宮[#一]。則天照大神始自[#レ]天降之処也。(垂仁紀)
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神と人間との間に立つて物を言ふ、後世の所謂中語に当る職分をしてゐた人たちには、尠くとも二通りの形のあつたことが考へられる。宮廷の尊貴な女性では、中天皇《ナカツスメラミコト》と申してゐる。即、神と神の御子なる主上との間に立つて、語をば持つ[#「持つ」に傍点]御方とするのだ。其から神なる人、主上と人間との間に立つて、同じ為事をするのが、所謂中つ臣、即、中臣である。而も、此中臣も意味広く、一氏族だけの職でなかつたのが、後に藤原氏を分出した中臣一族だけを考へる様になつたらしい。中臣の為事が、昔からそれほど高い地位を占めてゐたか、斎部とは比較にならぬ程重いものだつたかと云ふに、必しもさうは言へないのである。尤、後世の斎部氏の反撥的な主張は、古語拾遺其自身で見ても、歴史に対して無理会な、意味のない運動であつたが、古く溯れば、中臣氏の職分とさう判然たる区別があつたとも思はれない。
神と主上との間に、中介者のあつたことは述べて来た。と同時に、主上が神と人間との間に立つて、中語の御役目をなされた事も考へられる。其は、みこともち[#「みこともち」に傍線]と云ふ語によつて知れる。一体みこともち[#「みこともち」に傍線]は、古い文献には、既に地方官の高等な者、京官の下級の者などを示すことになつて、宰・大夫の字面を用ゐてゐるのが普通だ。が、其はみこともち[#「みこともち」に傍線]の用語例が、低い方に固定した為で、元は上から下まで次第々々に中語の役目を勤めることが、官吏の職であつた為、総べてをみこともち[#「みこともち」に傍線]と称した。其一番適切な証拠を示すものは、日本紀だ。尊・命と二様に書き分けてゐるが、みこと[#「みこと」に傍線]と云ふ語は、みこともち[#「みこともち」に傍線]の慣用から来た略語である。各階級に亘つて言うたからの区別である。だから、みこと[#「みこと」に傍線]なる語は、神から天子及び其以下の貴族にまで附くことになつてゐるのだ。即、其最明らかなのは、皇子《ミコ》の場合に窺はれる。天子の御代役を勤められる、謂はゞ摂政の位置に居られる方には、特別に皇子《ミコ》[#(ノ)]尊《ミコト》と称へてゐた。此は、他のみこと[#「みこと」に傍線]と、稍《やや》、語の内容が違ひ、皇子にして天つ神のみこともち[#「みこともち」に傍線]と云ふことである。
日の皇子《ミコ》の為の皇子尊よりも、更に高く位せられるのが、すめらみこと[#「すめらみこと」に傍線]でおありなされる。すめらみこと[#「すめらみこと」に傍線]が此世に降臨せられると云ふことは、天神の仰せを此土の精霊たちに伝へ、其効果を挙げることを期せられるのだ。だから、正確に信仰上の事実として云へば、春|天降《アモ》られた日の御子が、初《ハツ》春のみこと[#「みこと」に傍線]をみこともつて[#「みこともつて」に傍点]、扨、秋に至つて、みこともつた事
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