#「ふる」に傍線]の呪術から導かれたふるや[#「ふるや」に傍線]なる語が、更に一方には、八尋屋といふ風に誇張せられてゐた事が察せられる。前に挙げた三つの例は、密接に続いてゐるのでないが、此等によつて見ても、鎮魂の歌や其章曲が、いろ/\に岐れて行く筋道は考へられる。而も物部の表面に現はれた一番大切な為事は、宮門を守ることであつた。其が推し拡げられて宮垣・宮苑を守ることになる。其に対して、新しく宮中に入つた舎人系統のものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]は、――其組織から見れば、さう言へないだらうが――宮殿の上に侍した、と言ふ差別があるのだ。此が平安の宮廷其他の御所に、種々な名目の武官が居ることになつた理由だ。大体に於いて、此二種類のものが、衛府の人々になるのである。
舎人のことは姑《しばら》くおいて、ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]の最後に深い印象を留めた大伴氏は、其名称自身が、宮門を意味してゐた。従つて其守護の記念として残つたものが、平安京の応天門である。此が、普通正門と考へられてゐる朱雀門と同じ意義の重複したものだ。
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ゆぎかくる伴緒ひろき おほともに、国栄えむと、月は照るらし(詠月。万葉集)
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所謂大伴門(朱雀門)に月のさしてゐる有様を、讃美詞《ホメコトバ》に移したものであると共に、大伴氏自身に関係の深い歌だと言ふことは明らかである。
万葉集巻五にある憶良の「令[#レ]反[#二]惑情[#一]歌」(神亀五年作か)の如きも、聖武天皇の詔詞を飜訳したものなることは明らかだ。其と同じ系統で、更にそのなり立ちを明らかにしてゐるものは、大伴家持の「賀[#二]陸奥国出[#レ]金詔書[#一]歌」である。即、同年の宣命と割り符を合せる様になつてゐる。恐らく此時代には、詔詞が発せられると、族長・国宰の人々は、かうした形式で、己が部下に伝達したものと思はれる。其と同時に、その氏・国の特殊な歴史と結びつけて表す風があつたのである。かう云ふ考へ方から、万葉の長歌を見てゆくと、其本来の意味のはつきりして来る物が、もつとあるかと思ふ。古いところで云つても、藤原奠都の時の役民歌・御井歌などは、呪詞の飜訳と言ふことの出来るものである。或は既に、呪詞なくして、長歌ばかりがその用に製作されてゐたかも知れない。殊に「藤原[#(ノ)]御井[#(ノ)]歌」に至つては
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