種々な自然の組合せが出来てゐるのが本道の姿だといふ言ひ方が、此頃の花に対して持つてゐる考への落ち着くところだと思ひます。素人の我々の考へは間違つてゐるかも知れません。かう言ふ風に花の道の人の心を推察するのはわるいでせうか。
ところが、私はまう少しほかの事を考へて居ります。歌や俳句の上では、それと違ふ事があります。正岡子規といふ人があつて、俳句・短歌の上で大きな為事をしてゐますが、その子規が晩年になつて作つた句にかう言ふのがあります。

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藤の花 長うして雨降らんとす
鶏頭の 十四五本もありぬべし
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これには賛否両論がありましたが、どちらも本道は子規の心を掴んではゐなかつたのです。子規の眼の前で十四五本の鶏頭が秋の風景をつくつてゐるだけである。作つた肝腎の事だけを言つておけば――それを読む人が――その聯想を加へて其を中心に、その人自身の聯想の範囲において、延長なり、内容化して行き、藤の花だけ、鶏頭だけを詠んだのではないことを感じさせるといふ人が多いが、私は恐らくさうではないと思ひます。此句は、藤の花と鶏頭以外の何も言つてゐない、そこに句の面
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