白さがあるのです。
又、芭蕉の句に次のやうなものがあります。

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蜑が家は 小蝦にまじる蟋蟀《イトド》かな
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芭蕉も自慢してゐた句で「蜑の家に宿つてゐると蟋蟀が鳴いてゐる。そこに小蝦が干しひろげてある。その中で鳴いてゐる蟋蟀、その蜑の家。」といふだけの事で、それに、「秋の日が照つてゐる」とか、「秋の淋しさがそく/\と身に沁みて来る。」といふ風につけ加へて説くことがあつたら、私は其はさうではないと言ふでせう。

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梅 若菜 鞠子の宿のとろゝ汁
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これも、「梅や若菜の時分に、東海道を旅して鞠子の宿でとろゝ汁を吸つてゐる。」といふので、梅と若菜と、とろゝ汁のたゞ三つのあるだけの小さな天地なのです。その他何もいらない。これにつけ加へて説かうとするのは間違ひである。
私はちようどこの精神――外に何物をも容れない小世界、純粋な世界、さう言ふ小世界の存在を考へる所に、日本の芸術の異色がある――が、花の場合でも同じではないかと思ひます。広い世界を暗示する考へ方ではなく、与へられた材料だけでそれ以外に拡らず、
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