日本書と日本紀と
折口信夫

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)釈《と》いて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+纔のつくり」、472−17]入

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)吉備[#(ノ)]真備

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)しば/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−

     一 紀といふことば[#「ことば」に傍線]の意義

今後、機会のある毎に、釈《と》いて行つて見たいと思ふ、日本書紀と言ふ書物に絡んだ、いろんな疑念の中、第一にほぐしてかゝらねばならぬのは、名義とその用法とである。
一体、此書物の二通りの呼び名「日本紀」・「日本書紀」のどちらが、元からの題号であるか、と言ふ事からして、既に問題であつた。日本紀は、日本書紀の略称ときめられさうな処を、さうもならずにゐたのは訣がある。日本書紀といふ名は新しい書物に出て、古くは却つて日本紀と書いて居る様である。本名「日本書紀」通称「日本紀」と言ふ考への、成り立ち難いのは、此為であつた。或は、後期王朝に入つて「日本紀」といふ名が、正史から更に歴史といふ位に内容を拡げて来たので、其と区別する為に、固有名詞の方には「書」といふ字を挿入したのか、と仮定を据ゑて見たことも、一時はあつた。ともかく、今ある文書で「日本書紀」の名を記した一番古い物は、弘仁私記の序文と言ふ事になつてゐる。
てつとり早く結着を申すと、私の考へでは「日本書紀」は誤りである。「日本紀」が正しい称へだ、と言ふ事におちるのである。
支那の史乗の内で、固定しかけて居て、立ち消えした体の内に「紀」と言ふ型があつたと思ふ。「前漢紀」・「後漢紀」或は「通鑑外紀」などが、此部類である。かうした「紀」と言ふ、史書に通じた特質は、内容に於て、正史の「本紀」の姿に一貫し、体に於ては、編年を採つてゐる外に、ある本書を予期させる「伝」の姿を持つたものである事だ。「春秋」三氏の伝は、本書の価値からして、伝書其物まで経書の取り扱ひを受ける事となつた。其後、同じ意味で出来た書物の内に、伝[#「伝」に傍点]を称せずして紀[#「紀」に傍点]と名乗る一団が出来たのである。
政道の軌範としての史書の意味を、重んじる儒学の態度の、輸入せられたのは古い事である。紀伝道が立てられ、史書講筵が天子並びに高級官吏の間に続けられる様になる機運は既に、奈良朝に熟して居る。さうした講筵の対象になつてゐるものは、所謂三史であつた。「日本紀」の出来た目的の一部も、其辺にある様な気がする。
三史の中、史記・漢書には問題はない様であるが、残る一部は「後漢書」の名で記されて居るけれど、其が果して、今の後漢書を斥《サ》すものともきまらない。「東観漢紀」を示すのではないかと言ふ疑ひは、先哲以来宿題である。
唐にも「東観漢紀」が重んぜられてゐた為、其学風を移した奈良朝及び、平安初期に所謂三史の包含する所は、察せられさうである。
吉備[#(ノ)]真備将来の三史五経なるものが、筆拍子に乗らなかつた書き方だとしたら、「日本国見在書目録」に「吉備大臣撰(?)来するところなり」と註した東観紀を、三史の一つと見る事も出来る。又、東大寺に此書の伝本があつたと言ふ所から見ても、わが国に古く行はれた三史の後漢書が、単に普通の後漢書と一つ物だときめてゐることが、むづかしくなる訣である。後期王朝に入つては、時としては「晋書」其他の講筵も開かれた様であるが、ともかく三史の尊重せられた事は言ふまでもない。其と同時に、東観撰修を標した漢紀以外にも、前に述べた二部の漢紀の、渡来してゐた事も考へられるのである。
見在書目録に二書の名の出て居る事は、平安朝初期末より前――即、公の鎖国以前――に、此等の書物の舶載せられて居た事を示して居るので、其が幾年前の事であつたかは明らかでない。年数の「幾」には、十百等の字を代入する事も出来る訣である。日本紀完成以前既に、一部の学者は、此を見てゐた事は仮想が出来る。万々此二書の渡来がなかつたとしても、帰化留学の学者・僧侶の此等の書物に就ての知識が、日本紀の題号と体裁とを生んだと考へる事は出来る。
私の、文学史を講義した経験から言ふと、奈良朝以前の漢学は、従来の学者の考へとは反対に、嵯峨朝を頂点とする平安朝のものよりは、遥かに優れてゐる。入国後、間もなく日本詞章と提携する様になつた。さうした日本化の未だ浅いだけでも、純粋が保たれたのである。官辺よりは、寺院や民間に隆《さか》んであつたのである。見在書目録がどれ程広く、其等家々の文庫を含んでゐるかゞ問題であるし、渡来後、踪跡を失うた分も多からうから、此書目の登録する所を以て、所謂見在書の総計だと信じることは、到底出来ない。が、尠くとも、此書に載つた書物に、奈良以前の舶載が極めて多からうと言ふ事だけは、推測する方がほんとうだらうと思ふ。
前漢紀は、後漢の荀悦の著で、建安十年には出来てゐる。悦の序文で見ても、漢書の伝と言ふよりは、漢書をば、其本紀を綱紀として整理したものだ、と言ふ事は出来る様である。従つて巻数も、現在の漢書が百二十巻であるのに対して、三十巻に縮まつて居る。後漢紀は、此書に倣うて出来た物で、巻数はやはり三十巻、東晋の袁宏が、太元元年に撰つたものである。
三史をば為政の準拠として、中央政府に於て尊び、太宰府では、五経あつて三史を蔵せざるを恥ぢた時代である。殊に、三史講筵の行はれた関係から、此二紀が、漢書・東観漢紀或は、後漢紀の、有力な補助として利用せられてゐたらう、と言ふ事も察せられる。大同に到つて、新立の紀伝道に併合せられた進士・秀才の二道は、とりもなほさず科挙の為の学であつて、同時に行政に応用せられるはずの、過去の事蹟を授けるものであつた。貴族の間に流行した私学の建設も、政治社会に於ける、同族の繁栄を目ざして居たのである。かうした意味からも、漢書・後漢書の綱要とも言ふべき二紀の、奈良・平安に行はれたらう様は考へることが出来る。
年代から言うても、日本紀奏上前に、わが国の学者に知られて居た事は、大して、不自然でなく考へられる。

     二 日本書

直感の鋭い読者の中には、もう、私の言はうとする過程は呑み込まれてゐるであらう。「日本紀」と言ふ名前が、前漢紀・後漢紀と同様な組織を持つて居る所からつけられたものだといふ事は、日本紀の巻数がまづ明らかに見せてゐる。次には帝王の事蹟・宮廷・国家の事件を主として、編年の体に、事を叙述して行つた点である。今一つの証拠は、此文の結論であり、発端でもあるから、後の納得に委せる外はないが、日本紀が、ある正史の伝書ではないかと言ふ処にある。
日本紀に就ての最初の記録は、続日本紀に見えた次の一文である。
[#ここから2字下げ]
五月(養老四年)癸酉。是より先、一品舎人[#(ノ)]親王勅を奉じて、日本紀を修む。是に至りて功成り、紀三十巻・系図一巻を奏上す。
[#ここで字下げ終わり]
今の日本紀には系図はないが、大体は、疑はなくとも、よい様である。紀三十巻は此紀の巻数を示したのである。まづ書名と巻数とに、模倣の痕が見える。
日本紀は両漢紀に較べると、日次を立てることが、ずつと詳細であるが、やはり帝紀を書いて、自然に伝・表・志の要素を含んで居る。だから、編年とは言ふでふ、寧、正史の本紀の、独立・敷衍せられたものと見てもよい様である。此点も、二書の俤を写して居るのは察せられる。
其で、私は、日本紀は漢紀・後漢紀を学んだ「紀」の体の歴史、言ひ換へれば「伝」の形式を具へた物と思ふ。けれども、漢紀の序を見ると、紀は帝紀の意義から出てゐるものと考へられて居る様である。即、前漢歴代帝紀と言つた用語例に、はいつて居るものと思はれる。偶《たまたま》、伝書の様な姿に見えても、実は独立した成立を持つものと見てよいのである。東観漢紀に於ける紀[#「紀」に白丸傍点]の用法も、其である。ところが、漢書・漢紀の関係を、史記及び三氏の伝と同様に見る風が生じて来た。袁宏の後漢紀になると、紀綱[#「紀綱」に傍点]・綱要[#「綱要」に傍点]などの聯想から、伝の意義を考へて来てゐる趣きが、其序に見える。併しながら結局、紀の伝と違ふところは、本書から独立して、本末の関係のない様な姿をとる事であつたらしい。奈良朝に於ける成語・術語の用法には、漢土の意義に比べて、誤用がかなり多くある。けれどもかうした正史とも言ふべき欽定の書に粗漏があるだらうか。大体「紀」なる体の意義を知つて、命《なづ》けたものと思はれる。
さすれば、両漢紀に対して、漢書・後漢書(?)が持つてゐたやうな関係が、日本紀と其以前にあつたわが国出来の或書籍との間に、あつたらうと言ふことも言はれると思ふ。
重刻両漢紀後序に、
[#ここから2字下げ]
其事、咸《ミナ》編年に萃む。故に紀と曰ふ。其事、伝・表・紀・志に分つ。故に書と曰ふ。
[#ここで字下げ終わり]
とある。そこで、順序から言へば、日本紀以前に、正史体の「日本書」と言ふものがなければならぬ。さうして、其日本紀は、むざうさに謂《い》へば「日本書」の伝であり、其「帝王本紀」を中心として、編年体に「日本書」を整理したものでなくてはならない。私は久しく「日本書」の実在について疑念を放さなかつた。尠くとも、両漢書の例で見れば、百二十巻位の巻数の正史がなくてはならないのである。史実はしば/\吾々の合理的想像を超越して、意外な大きな事実を包んで顕れて来るものである。だから、さうした「日本書」の、なかつたものとは決められないが、日本紀以前にさうした大部の正史があつた事は、此までの歴史観の地盤の上には考へにくいのである。
けれども強ひて、其があつたらうと言ふ予定から、歴史を見れば、其らしいものがないではない。よく引用せられる天武紀十年三月の「天皇大極殿に御し、川島[#(ノ)]皇子以下十一名に以詔《ミコトモタ》しめて、帝紀及び上古の諸事を記定せしむ……」とあるのが、或は其「日本書」なるものゝ由来を書いたのともとれる。此記事は普通「書紀集解」以来、日本紀の準備作業であつた様に解してゐる。其とて、別に根拠のある事でもないのである。寧《むしろ》、日本紀の事は、古事記の出来た満二年後、和銅七年二月(続日本紀)に「従六位上紀[#(ノ)]朝臣清人・正八位下三宅[#(ノ)]臣藤麻呂に詔して国史を撰らしむ」とあるのに当てはまる。
天武朝の企てを不成功或は、永続事業となつたと見れば、此時が、日本書撰定の詔勅の降りた時と見る事が出来るが、此五年後に日本紀が出来てゐるのであるから、此を、日本紀着手の時と見る方が無理がない。天武十年の修史は、不成功であつたか、又は別の歴史が出来たのか。其とも、和銅七年の修史事業に繰り返された日本紀撰定の第一回の試みか。或は、前に述べた日本書に就ての記事か、幾通りにも考へられるのである。まづ和銅の国史を、日本紀の第一期と見、天武紀のを「日本書」と見る方が、纏《まとま》りの上では鮮やかではあるが、事実は何とも決められない。何にしても、果して、日本書があつたものだらうか。
やはり、日本書なる名の書物の、あつた事だけは事実である。「正倉院文書続修後集」第十七巻中「更可請章疏等」と首書した天平二十年六月十日の文書(大日本古文書三・南京遺文)のさま/″\の仏書・漢籍を列記した末の方に、漢籍扱ひをして、
[#ここから2字下げ]
帝紀二巻 日本書
[#ここで字下げ終わり]
と記してゐる。此はともかく、「日本書」なる史書が当時存在してゐた事を見せてゐる。さすれば、日本紀の本書たる「日本書」の存在は、空想ではなかつた。たゞ此文書によつて、更に限りない疑念の、蜘蛛手に論理を走らせるを覚える。

     三 日本紀の成立

私は実は以前、懐疑の立ち場から、為政者の政策として、日本書なしに日本紀を編纂して国際関係の上からある虚栄を満し
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング