てゐたのではないかと考へて居た。さうでないとすれば、紀の体のみを学んで、書の有無に拘らなかつたものかと思うてもゐた。ところが、此一行の文字から、やゝ推測の方角が、かはつて来た。
右の書き方で見ると、「帝紀」と「日本書」とが、全然同一物ともとれる。又「帝紀」は、普通名詞とも言へる内容の広い物であるから、其分類のうちに、「日本書」も籠つて居たのか。「日本書」の中に、二巻の「帝紀」があつたのか。此三とほりの考へが、なり立つ訣である。
第三の考へが、一番完全に書[#「書」に白丸傍点]と言ふ名に叶うた見方と思ふ。正史の本紀にぴつたりと当てはまる点からも、其は言はれる。でなければ、あまりに「日本書」の名にふさはぬ貧弱な冊数である。尤、当時既に闕巻になつて居たと見れば、其までゞある。又筆耕の為に二巻だけを請求したとゝれぬでもないが、其ならば、今尠し小書きでもなくては、どの巻を出してよいか、訣らなかつたはずである。
帝紀と言ふ名目は、古事記・日本紀・上宮法王帝説などを古いものにして、後期王朝の物にも見えてゐる。但し、平安には、段々普通名詞化して来た痕が、著しく見える。本朝書籍目録などの分類によると、帝紀の項に、旧事本紀・古事記から、六国史及び、日本紀私記其他雑史書類までも収めて居る。要するに、欽定・私撰に拘らず、本朝の歴史と言ふ用語例に入る様になつたものらしい。
試みに、私の空想に近い考へを申すと、奈良朝以前にも既に、帝紀の意義は、大体二通りあつたのではないかと考へるのである。一つは、皇室の事ばかり書いた謂はゞ皇統譜の稍《やや》細密な物である。古事記の序に見えた帝皇日継と言ふものが、此に当る。日[#「日」に白丸傍点]は神聖観を表す敬語、継[#「継」に白丸傍点]は纂記《ツギフミ》のつぎ[#「つぎ」に傍点]で、系譜である。此帝皇日継がおなじ序に、帝紀・帝記とも三通りに書き別けられてゐるのは、大同小異の異書の存在した事を示して居るので、厳とした一書の異名とは考へられない。だから、帝紀及び帝記も普通名詞に近い書名である。
今一つは、「日本書」として編纂せられて居た物の一部即、其本紀を言うたものとするのである。日本紀引用の書物の中に、現に帝王本紀の名が見え、弘仁私記の序にも、古事記の事を記す条に「帝王本紀及び先代旧事を習せしむ」と書いて、帝紀・帝記・帝皇日継に通用して居る様に見える。ひよつとすると、帝皇日継だけに当てたものとも、とれぬではないが。
此二つの考へ方には、調和点がある。それは、正史としての「日本書」撰修の企てが天武以前既にあつて、それが完成せないで、尚「日本書」を称した場合を仮想するのである。本紀ばかりが出来上つて、貴族の間に流布して居たものとする。さうすると帝紀・帝王本紀に、※[#「てへん+纔のつくり」、472−17]入が加はり、錯乱してゐた理由も知れる。そればかりか、日本書の、帝王本紀又は帝紀とおなじものであつたことが強く言へる様になる。其と共に、広狭二義の帝紀の、実は同義であることが知れるのである。唯帝紀が、種々の異本に通じた名であつて、一種類の史書の異名でないことだけは、明らかである。
一体、帝紀なる語《ことば》は、正史の本紀と一つ意味のものではあるが、我が国では尠くとも、帝紀と本紀とに区別を立てゝ居た様に見える。此は、聖徳太子の国史(所謂旧事本紀の原書)の巻の立て方以来の事である。本紀は孤立せないもの、帝紀は独存する事の出来るものと言つた考へ方がある様だ。日本書が、帝紀と言はれ、又稀にはある書の一部分なる事を示す帝王本紀なる称呼を持つて居たらしい事の理由も、こゝに在るのかと思ふ。
「日本紀」に対する「日本書」はあつた。併し其が果して、正史の形に完成してゐた物であつたかは、疑問である。唯今までの考へ方ですれば、日本書の一部なる帝王本紀が、帝紀として行はれてゐたと見るのが、一番適当らしく思はれる。
さうして、更に推測を加へれば、日本書の帝紀が早く成つて、其が伝写を経て、様々の異本を生じて居たものとも考へられる。此が帝紀なる語を普通名詞化した導きになつたのではあるまいか。
かう言うては来ても、尚一種の外交政策から、日本書よりも大きくて整うた日本紀を拵へたのではあるまいか、と言ふ疑念は、消しきることが出来ない。国際関係を痛切に意識するやうになり、それと同時に、文明が適当な度合ひに進んでゐたとしたら、その時代の政治家の企てる為事の一つは、修史と、版図の整頓を示す地理書の撰述である。其国に完全な国史のあると言ふことは、支那風の国家観念には、主要な条件になつて居た。古事記の出来た意義は、私には、ほかに考へがある。
日本紀は全く此目的からして、いろんな時代的陣痛を経て生れ出たものなのである。日本紀があるかないかと言ふ事が、其宮廷に正史あり、紀類のある事を示すもので、国家の誇りでもあり、自衛ともなつた訣なのである。
永劫に消散する事の期せられぬ疑ひは、先進国に対して、文明の変つた島の宮廷が抱いた気おくれから来たはずの、虚飾態度に対してゞある。末葉の我々の思案に能はぬものがあつたに違ひなからうと思ふ。
私の小論文で、若し決める事の出来たものがあつたとしたなら、「日本紀」あつて、「日本書紀」のなかつた事実である。さうして、日本書紀なる名は、史学の知識が自由な流動性を失ひかけた頃から、始まつた誤りらしく思はれる事である。而も其は、書[#「書」に白丸傍点]と紀[#「紀」に白丸傍点]との関係・命名法になま半可な理会を持つて居た紀伝・明経博士等のさかしらから、起つたのに相違なからうと言ふ事である。さうして、弘仁私記の序に見えた「日本書紀」の字づらを見ると、史学全盛を謳はれた弘仁度の博士たちの知識程度も凡は測られる。一知半解のもの知り顔から、半紙がみ・朱器椀など言ふにも等しい、書名の音覚えに慣れて行つたのである。漢書紀・後漢書紀など言ふ名のあり得べなくもないものとすれば、日本書紀なる名称は、慣用以外には、意味のない、と言ふ事を決定したつもりである。
従うて又、編年の日本紀に対して、正史日本書或は、其一部分の帝王本紀らしいものゝ、実在した事の輪廓だけは、書き得たことになると思ふのである。
底本:「折口信夫全集 1」中央公論社
1995(平成7)年2月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店
1929(昭和4)年4月25日発行
初出:「史学 第五巻第二号」
1926(大正15)年6月
※底本の題名の下に書かれている「大正十五年六月「史学」第五巻第二号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年8月15日作成
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